2017年7月20日木曜日

② 「磯街道の廃寺を巡る」

北 隆志
唐鎌祐祥

 磯街道という地名は現在は余り使わないが、昔の市民は親しみを込めて使っていた。街道は八坂神社辺りから潮音院ガ鼻辺りまでを田ノ浦、琉球松辺りから桜谷、磯天神を経て磯庭園までを大磯といい、この磯浜の海岸道を磯街道といった。鹿児島城下一の景勝の地であった。
 浄国公(吉貴、家督1704~1721)の時、断崖を削り一路を開き磯邸まで人が通れるようにした。多賀山、田ノ浦、大磯は風景眺望が優れ鹿児島八景のうちで、多賀晴嵐、大磯夕照、田浦夜雨と言われた。鹿児島八景は都市化にともない往古の美しさを失っているが、磯街道はその面影を残している。
桜島、錦江湾に臨む田ノ浦、大磯の景勝の地を選んで、東福山山地の急斜面に寺が建立されていた。田ノ浦に良英寺、永福寺、潮音院、大磯に月船寺、龍洞院の古寺があったが今は全て廃寺になってしまった。
 街道は、明治5年天皇が巡幸されたとき、磯の製鉄や紡績のさかんな機械局を見られるというので大山県令が田之浦から磯までを今のように拡げた。


図1左上は多賀山 正面は良英寺

巡幸の一時の便利に止まらず利用する者が多く、さらに重富まで延長された。竜ヶ水大崎の海岸にこの事を記した記念碑が残っている。
  良英寺は曹洞宗福昌寺の末寺で、桜島にあった地蔵院が廃寺となったため、寛延4年(1751)福昌寺の脩門和尚がここに再興した。この時、22歳で亡くなった慈徳院(島津23代宗信)の生母妙心君の願により、慈徳院の霊牌を良英寺に安置した。寺の名は、「慈徳院の法名慈徳院殿俊厳良英大居士」の二字をとって良英寺とされ、本尊は聖観音、高い位置にあった良英寺は山海の眺望がすばらしかったという。宝暦10年(1760)には父の宥邦院(島津22代継豊)も亡くなり、宥邦院の霊牌も良英寺に安置された。
 『九良賀野久馨自記』によると、「薩英戦争の前夜、家老小松帯刀から


多賀山への登り口から見た良英寺跡

指示があり、持場の祇園之洲砲台に向かった。
その夜は山手の良英寺に集結して夜の明けるのを待った。28日朝、攘艦7艘は蒸気を立て、前ノ濱の十丁内外の沖に悉く碇泊した」とある。攘夷を誓い夜明けとともに良英寺を出た祇園之洲砲兵隊であった。


良英寺跡地

薩英戦争で最初に攻撃された祇園之洲砲台は、北側に防塁がないのが弱点であった。一旦北上した英国艦隊は大崎鼻沖から折り返し、南下しながら防塁のない北側から集中砲火浴びせた。側面砲撃を浴びた砲台は壊滅状態となって沈黙してしまい、祇園之洲砲台では上陸を許したのではないかと間違われ、増強部隊が途中まで駆けつけたほどであった。また、各砲台のなかで戦死者を出したのも祇園之洲砲台で、大砲の照準をつけようとした伍長税所清太篤風が直撃を受けるなど最大の被害を蒙った。良英寺は、開戦前夜は砲兵隊の宿泊所となり、戦闘中は看護所となるなど、薩英戦争と縁が深かった。薩英戦争から3年後の1866年7月27日、パークス等が親交を求めて来鹿したとき、鹿児島遊覧の後「果実」、「(シャンペン)」、「菓子」、「麦酒」等で饗応した会場が良英寺であった。良英寺は明治2年廃寺となった。

  良英寺を北へ向かうと山手に大乗院の末寺、真言宗の東嶺山永福寺があった。本尊は観音菩薩、左位に関聖君、右位には天妃であった。『永福寺来由記』には、寛永14年(1637)唐人黄一官、高一覧、陳友官によって創建、鹿児島安養院の覚因和尚を開山にした。この寺は、黄一官が長崎から海路薩摩に来るとき、激しく吹きまくる暴風の難を天妃の霊應で逃れることが出来たことから、永福寺を建て天妃を祭ったという。
また、一説には、南林寺の山之口にあった菩薩堂が火災にあったので、菩薩堂から天妃を永福寺に移したともいう。永福寺は明治2年廃寺となり現在は草木に覆われて跡形もない。

  永福寺を過ぎると一角が海に突出したところに風景楼があった。『大正7年の鹿兒島市街地圖(地理研究會会)』には、磯街道に接した島津重富荘入口の前にある駐車場あたりに風景楼とみえる。風景楼は明治30年4月に料理屋として開業している。風光明媚山紫水明の所で錦江湾の絶景を一望でき、料理も好評で客が多かったとある。
風景楼の山手に潮音院があった。潮音院は大乗院の末寺で真言宗、開祖は寛永15年(1638)、坊ノ津一乗院の住職覺因法印である。本尊は阿弥陀如来。二世は覺恵法印で、大乗院十七世の住持であったが晩年は潮音院で過ごした。第21代吉貴公は覺恵に帰依し、たびたび潮音院を訪れている。覺恵は博学で、「阿字観節解」、「阿字観消息」、「阿字観秘訣」など密宗関係の著書がある。それらは高野山金剛峯寺での修行僧に「善作の書」として重宝されたという。
  『木村深元小伝』に「木村深元四十七歳、享保十年(1725)夏、求めに応じて田ノ浦潮音院の住持不石上人の真像を写す」とある。不石上人は、書家で蘭の花をよく画き「不石の蘭」と称えられていた。また、大らかな人柄で詩を好んだともある。画かれた真像(高僧の肖像画)がその後どうなったかは記されていない。
潮音院は、後ろに山を背負い、前は海に臨み、奇岩あり、古松あり、仏教修業には浄境の地であったが、明治2年廃寺となった。

  潮音院ヶ鼻、琉球人松辺りあたりから磯天神までは桜谷といった。もともとは、桜谷、柳谷、紅葉谷という字名が付けられていたようで、これらを総称して桜谷といった。昔は巨岩や奇岩が幾重にも重なり数千株の桜林があったという。「満山桜樹
にして其風景ふるにものなく、花季に際しては貴賤の遊覧も許され、殊に愛すべき勝景なりき」と記されている。遊船1日に300艘に達する盛況とある。昔の絵図(図1)には桜谷の花見をする船が描かれ、花の季節は海上からも遊客が桜を楽しんでいる。
文久3年の薩英戦争後は、桜樹を切り払い岩石を採取し、神瀬台場築造に使用したため昔日の面影はなくなったという。
  磯街道JR踏切の辺りには慈雲山龍洞院があった。磯天神の別当寺で、天台宗国分弥勤院の末寺である。本尊は不動明王、中興開山は憲英法印である。
日州高原の常教院が廃寺になったので享保十年(1725)、第21代島津吉貴公の命により再建された。


左から桜谷 天満宮 龍洞院 造船所 異人館

寺禄5千石で什宝には弘法大師真筆の心経1巻、雪州の文珠絵一幅があったという。嘉永年間(1848~54)斉彬公による造船事業や集成館の技術者や職工等のための長屋の建設により廃寺となった。
 平成23年に英国人技師の住宅であった異人館周辺の発掘調査が行われ、異人館の東側の地下1.1mに道路に沿った石積、
南側では地下1.5mのところにでと呼ばれる補強工事の跡が見つかった。この時は龍洞院跡とは断定はされなかったようだが、最近では、石積は異人館を作るため廃止された龍洞院の一部とされ、異人館周辺は龍洞院跡と推定されている。
                   
 私にとっては幻の寺、月船寺を求めて大磯山の急な坂を登ると、いくつかの墓石がある寺域らしいところに迷い込んだ。かつての寺域の一部は、今は個人宅敷地となっている。大磯山月船寺は山城国宇治黄檗山萬福寺の末寺である。釈迦如来を本尊とし、木庵禅師(万福寺2世)が開山した。一時廃寺となっていたが、元禄14年(1701)6月、木庵禅師の弟子愚門和尚が中興する。『三国名勝図会』には、「愚門和尚は霊験ある僧で自ら誓いをたてて、寺の西に洞窟を設けて享保13年戌申
(1728)2月28日こ
の洞窟に入定し鳴らすこと7日、3月4日盤の音が絶えて以て其迂化(高僧が亡くなること)を知る。洞口に石塔あり。洞上に愚門の石像を安置した」とある。人々の救済と自らの禅定を求めて色を絶ち生きながら仏に


大磯山月船寺跡への石段(私有地)

なった即身仏となった。昭和6年頃に書かれた書物によると、近くにあった石碑に「初代搭の左傍の二代搭に月船寺殿壽岳元仙大居士搭、享保十三年戌申晩春初四日當寺第二代搭」と刻まれていたという。この頃は石搭も洞口も在ったのだろう。今は見当たらない。桜島を望む絶景の寺跡と思われる辺りは樹木に被われていたが、進むと突然夏草の中に石仏が現れた。下半身が埋まった愚門和尚の石像は、容貌きびしく迫力がある。因みに、四代住職は龜山和尚、八代指月和尚は下田村の庄屋永吉實平の子であったという。月船寺は明治2年廃寺となった。
   

愚門和尚石像(私有地内)

安政四年(1854) 祇園之洲に植えられ、海岸に森々として眺望に富んでいた二千本の松や杉は、今はどこにも見当たらない。田之浦や大磯を、多賀晴嵐、田浦夜雨、大磯夕照と詠んだ風景は、その活字に風景を想像するのみ。良英寺は宅地となり、永福寺は跡形も見当たらない。潮音院は民間の施設用地に、桜谷は倒木や草に覆われ、龍洞院は異人館の下に埋もれた。
月船寺に残った愚門和尚の石像は、展望の開けた大磯山から変わり続ける大磯の姿を見続けている。そこには歴史の無情が漂っていた。
 (今回は本文、写真を北が、唐鎌が古絵図、編集を担当した)
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① 「武岡山麓古道と西田町通り」

北 隆志
唐鎌祐祥

 古い新聞には記者が出勤途上や、夏の夜に出かけて見聞きした珍しいことを記事にするシリーズがよく掲載されている。この記者は常磐の辺りに住んでいて西田町通り(古称西田橋通り)、千石馬場を経て広口(広小路)にあった新聞社に勤務していたようだ。
 明治43年2月「甲突川河畔の人家は朝霧に霞み、人の影も ぼっと霞んでいたある朝」の模様が記されている。「田上あた辺りの姉御達が、人参、葱などを一杯入れた籠を担ぎながらワイワイ言って西田橋」を渡っていった。大正末までは、田上方面の人たちは荒田や武の東部に広がる沼沢地や水田のぬかる畦道をさけて武岡山麓の古道を回り道して、西田町通り経由で西田橋を渡っていた。
 昭和30年代初めまでは田上から武岡の山裾の地形に沿う小道が通っていた。武町は明治44年に鹿児島市に編入され、翌年の戸数は156 戸、人口724人で、集落は山麓に集中し ていた(『鹿児島のおいたち』p520)。民家は武大明神の下から南の沿道に多かった。


 (図1『鹿児島絵図』 文政前後) 

北側沿道には仏教排訴運動で廃寺になった壽 國寺(黄檗宗)や、常磐野元の笑岳寺(曹洞宗)などの墓地があった(図1)。壽國寺は「武村にあり高嶺を後ろに負い、曠田を前に臨む」と『三國名勝図会』にある。
 紫原から武岡にかけては西南戦争の激戦地であった。『靖国神社忠魂史』の明治10年6月24日に「官軍は薩軍を走らせ紫原、二本松付近の塁を奪取した」とある。『武郷土誌』によると二本松は「唐湊温泉場の西方の高地上に二本の松が生えていたので名づけられた俗称」の地名らしい。
 かつて、谷口午二画伯が「天文館の二本松馬場から紫原・武岡方面を望むと、崖に二本の松が夕日をうけて黒く浮き上がり辺りを圧し、その一瞬の夕景を賞で自分たちの住む馬場を二本松馬場といつしか命名したと、古老から聞いたことがある」と 何かに書いておられた。二本松馬場に真っ直ぐ夕日が射し込む時期、ここから眺める武岡・紫原台地のシルエットは実に魅力的で然もありなんと思う。夕日の沈む武岡を眺めるとこの地名由来を思い出す。武の小字五本松、鳥越峠近くの三本杉など樹木に由来する地名も多い。
 官軍大尉山本吉蔵は明治10年6月、武大明神ヶ岡で戦死したとある(『靖国神社忠魂史』)。山本吉蔵は2回内閣を組織した山本権兵衛の兄である。
 城山は鶴丸城の一部とされたので城山には入ることができなかった。山遊びが好きな城下の子供たちは武岡に良く登り遊ぶのが普通だった。山本吉蔵は幼友達らとふるさとの岡で戦い亡くなっていった。
 建部神社は古くは俗に大田大明神とかたけ武で 大めつ明さあ神ともいい当地の産土神である(『薩隅日地理纂考』P93)。確か境内に猫神の祠もあった。昭和30年ごろだったか、神社下にガラスの町工場があり、田舎者の私にはドロドロに溶けた液体がガラス瓶などに変わってゆくのが珍しくよく見に行った。
 武・田上地区土地区画整理事業は昭和42年4月に計画が決定し、昭和55年度に工事を終えている。田上の姉御達が通った昔の武岡山麓の面影は全く無くなってしまった。
 西田橋から先は「ひとながれの田舎町」とわれたが、町屋が西田橋から常磐町の入り口の町門まで並んでいた。

鹿児島城下絵図 天保年間

(図2『鹿児島城下絵図』天保年間)

 藩末まで現在の西田本通りの常盤町入り口の交差点に西田町と西田村の境の町門が設けられていた。この交差点付近は現在でも町門といわれ、西田小学校よりに「丁門」という喫茶店があった。 西田町は上ノ町・中ノ町・下ノ町の3町か (図2『鹿児島城下絵図』天保年間) らなり、市営バスの西田 中之丁停留所はその名残りである。先の天保年間の絵図によると、その付近に西田町の町役たちの会所や火ノ見櫓が描かれている。古い市街地図を見ると狭い間口の商店が規則的に並んでいる。おそらく幕末の店の地割の名残であろう。


(西田中之丁停留所)

 中浜万次郎は嘉永4年に琉球に帰国し、山川を経て8月鹿児島に入る。万次郎は西田会所で48日間取り調べをうけた。外国の事情に精通していることに驚き、海外の新知識導入に関心の深かった斉彬の命を受けた原田直助らが「造船及び捕鯨の方法、その他の事情」などについて聞き取りを行った。この時ス クーネル船のひな型が作られ、これをもとに造られたのがおつ越と 通 せん船といわれる(『中浜万次郎申口』)。
 西田通りは西目街道の参勤交代路で水上坂下から旅が始まった。図3『薩州鹿児島郡西田村絵図』(東京大学史料編纂所蔵)によると町門を過ぎ、新溝筋(石井手)の筋違橋を渡りしばら く西に進むと、右手に阿弥陀堂、その先に西客屋、左手に東客屋が描かれている。川が道路を斜めに横切って橋が斜めに架か っていたのですすけ筋違ばし橋と呼ばれた。


(図3『薩州鹿児島郡西田村絵図』(東京大学史料編纂所蔵) 

 筋違橋があった所から石井手用水路に沿って南に向かうと笑岳寺とその墓地があり、その一部が現在笑岳寺公園となっている。墓地は武岡墓地に移転した。笑岳寺は『三国名勝図会』に よると永禄12年(1569)創建、伊集院曹洞宗梅岳寺の末寺とある。明治2年廃寺のあと笑岳寺の墓地だけが残った。墓地は昭和48年鹿児島市の都市改造事業(土地区画整理事業)で移転し、住宅地や公園に生まれ変わった。


 (笑岳寺公園)

筋違橋の少し南で、西田田圃を潤す用水が分岐し、西田町の南側を東流し、西田橋の少し下流で甲突川に合流する。現在全部暗渠になり、上は道路になってい る。この用水路をみなじり蜷尻川と呼んでいた。


(筋違橋付近から暗渠水路)

 弟子丸方吉編の『常盤町之史蹟』(昭和14年発行)によると、堂の傍に綺麗な水が渾々と湧き出る泉があり阿弥陀井戸と呼んでいたという。昔はこの湧水を酒造りのため下町の酒屋が水汲みに来ていたという。阿弥陀堂には六尺ほどの阿弥陀が立っていてその傍に地蔵が並んでいたが、これも廃仏の時取り壊され埋められた。


(水上坂下水源地の跡) 

 その後地蔵が掘り出され、もとのところに安置されたという。写真は先日撮影したものであるが、写真の阿弥陀や地蔵等はこの時のものであろう。
 客屋の入り口には大きな黒塗りの門があり、参勤交代の時、ここで藩主は休憩し装束を改めたり行列を整えたりしたので、御装束門といったりしていた。客屋の 周りの山裾に藩政期に築造された立派な石垣があった。


 (客屋跡の石垣) 

筆者もかすかにその石垣を見た記憶がある。この湧水を過ぎると道は坂路になった。 明治2年9月に知政所から「水上客屋を廃することを達す。右御不用に付被廃候」と申し渡されている(『県史料忠義公史料』⑥p270)。
 日枝神社(山王社)の東側、常盤本通り沿いにあった同社の別当寺西田寺の南奥、現在の白浜病院の下付近に西田村の役所 があり本通りから役所に入る小路は「しよう庄や 屋どん殿 のすじ小路」とい わ れた(『常盤町之蹟』p28)。
 明治2年12月から庄屋は村長(むらおさ)と呼称が変わっている。(『鹿児島県史料「旧記雑録追録』⑧p719 )。ここが藩政期から西田村の村政の中心地であったと思われる。 明治44年10月に西田村の字一ノ迫ほかを割き、鹿児島市常盤町となっている。


 (庄屋殿の小路)

その時、他の西田村の字も、西田町と薬師町に編入され西田村は廃村になった。
 明治2年ごろから旧藩の施設は不用として廃止され、村役の呼称も変わる。明治維新の新制度に次々に替わっていった。 (今回は本文を唐鎌が、編集、写真は北が担当した)
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