2018年6月6日水曜日

⑥ 「下町の商店街」

北 隆志

 明治における日本の商工業の案内書「明治商工便覧」の中から絵入のみを集成した「鹿児島独案内」という木版画集がある。鹿児島独案内は人に聞かなくとも読めば自然とわかるように作られている案内書で、明治10年代から20年代によく出版された。
石灯籠通り沿いの堀江町、汐見町、住吉町、大黒町や、中町通り沿いの中町、六日町、金生町などの商店、会社、銀行等有力店舗を中心に、広告もかねて紹介した画集である。同書における商店の分布でみると上町については4店舗のみで、ほとんどが下町所在の商店である。当時は石燈籠通りや広馬場通りが繁栄の中心となっており、特に石燈籠の様子について記してみたい。

  石灯籠通りは前ヶ浜港(鹿児島港)を控え幕末から明治、大正、昭和の戦前にかけて鹿児島城下で最も繁盛した通りであった。
 輸送手段が未発達な藩政時代の重量物の運搬は船が最適であったため、前ヶ浜には錦江湾内だけでなく藩内、藩外の物資が集まった。また、下町は藩の有力な商人が多かったこともあって、城下の海の玄関口、石灯籠通りは商店が軒を並べ三町のうちで最も栄えた。 松山通りが市電軌道と交わったところから海岸までが石灯籠通りなのだが、石灯籠交差点から海岸方向の今の風景からは当時の繁盛ぶりは想像できない。しかし、万延元(1860)年に記された「鹿児島風流」の絵図には当時の城下を代表する繁華街として、海岸に真っ直ぐむかう石灯籠通りが描かれている。奥の港には、今の位置と異なり「石燈籠」が一基だけ見えている。「石灯籠通り」とよばれるようになった由縁の燈籠である。

国産煙草製造所
 愛煙家には居心地がよくない世の中になったが、たばこがいつ日本に伝わってきたの かということについては確かなことはわかっていないようで、天文年間の鉄砲伝来   (1543)とともに伝わったとも、天正年間(1573~92)にポルトガル船が九州に来航 したときに伝わったともいわれるなど諸説あるようだ。
 たばこは、慶長年間(1596~1615)には全国に広まっていた(財務省財務総合政策研究所)ということから伝播はかなり早い時期ではなかろうか。
 JT鹿児島の原料本部副本部長であった方によると、たばこが初めて植えられた場所には諸説があるが、産地として定着したのは鹿児島の指宿で1605年ころというのが定説だという。また、おはら節に歌われている「花は霧島,煙草は国分」で有名な「国分葉」は、服部近左衛門が試作したのが始まりで1606年のこととされている。
  日本の煙草の製造は手刻み煙草から発達した。ゼンマイとよばれた「ぜんまい手刻機」は座作業のため能率はさほどよくなかったが、出来上がりの質は良く上級煙草として扱われた。
 たばこを手にしている様子が浮世絵に描かれるようになるなど喫煙の風習が広まるにつれて、たばこの製造や販売が産業として発達して製造販売を専業とする店が現れた。
 「鹿児島独案内」には16店の煙草製造所兼販売所が描かれている。

絵図1 藤崎専左ェ門薩摩名産刻煙草製造本舗舎と煙草組合事務所

 絵図1は「藤崎専左ェ門薩摩名産刻煙草製造本舗煙草舎と煙草組合事務所」で堀江町にあった。現在では堀江町13区画の東側あたりになる。
 藤崎専左ェ門煙草舎の斜め後方には藤安醸造店があった。藤安醸造店があった場所は今でも藤安駐車場と藤安氏の住宅がある。同じ堀江町には、菩薩堂通(現在のぼさど通り)の横山栄三国産葉莨刻煙草売捌所。また、隣接する住吉町には、鶴田孫次郎国産煙草製造所、笹貫市之丞国産葉莨刻煙草売捌所、船津町に白川正吉国産刻煙草卸小売捌所主撰堂、金生町の林伊兵衛国産煙草製造所名産堂国産煙草製造所、中町通り野菜町角の小島甚兵衛国産煙草製造所など、煙草葉を乗せた船が荷揚げしていた海の玄関口「石灯籠通り」近くに多くの店舗が集まっている。

ぜんまい刻機             
  店に描かれている分銅がぶらさがったような機械が「ぜんまい刻機」で、東京墨田区の「たばこと塩の博物館」に現物が展示されている。明治30年代には日本に約5千人のたばこ製造業者がいたというが、明治37(1904)年の「煙草専売法」により原料葉たばこの買い上げから製造販売まで国の管理で行われことになり、鹿児島の煙草製造所も消えていった。
 ついでだが、「たばこ自動販売機」の設置は意外と古く、大蔵省専売局が明治43年9月、東京の小売店に設し、大正時代に大阪に設置された。日本全国に設置され始めたのは昭和になってからである。(「日本たばこ産業」2012年5月7日「第3話たばこ自動販売機の始まり」)

 写真の左側が藤安醸造店跡、手前が藤安駐車場と奥の二棟列んだ建物が藤安氏宅。
 右側の奥の民家の裏辺りに藤崎専左ェ門薩摩名産刻煙草製造本舗煙草舎と煙草組合事務所があった。






鹿児島独案内に描かれている煙草製造所や売捌所
刻み煙草の銘柄の一覧が広告してある


 

呉服商
 呉服商の暖簾をくぐると「いらっしゃいませ」と番頭の声が掛かり、丁稚どんが手早く座布団やたばこ盆などをすすめる。客の望みを聞いた番頭は丁稚どんに奥から反物を取り出してくるよう指示をする。商品が列んでいるわけでなく反物には値札はない。相手をみながら値段の交渉をするという座売りの風景である。     
 「鹿児島独案内」によると、明治22年ころの石灯籠通りの主な呉服商は、ヤマカネ呉服太物商山下商店(後の明治屋)、古着商山形屋商店、呉服太物琉球反物商和田店、古着商山下源助などがあり、また近くの金生町や中町には、呉服太物商山形屋商店、古着商山形屋支店、呉服太物琉球反物商鹿児島授産物製縞并に古着類及び洋服裁縫所藤安店、琉球反物類薩摩飛白類呉服太物商藤安支店、呉服太物唐反布類緑屋など12店舗があった。 「古着類」とは古着のほか、既製品の着物も古着と見なされた。「太物」とは綿や麻の織物の総称で,綿織物、麻織物など太い糸の織物をいい、絹織物に対して使われた。
また、「飛白」はかすりのことである。

 小さな呉服商は多量の在庫を置かなかった。客がこれこれはないかと聞けば、間髪入れず「へい、ござります」と答え、丁稚を呼びつけ「これこれの品をご所望です。持って来るように」と指示をする。丁稚は「へーい」と言って飛び出す。飛び出してみても駆け込む倉庫など初めからない。そこで裏口から抜け出した丁稚どんは同業者の店に駆け込むことになる。客の望みの品を分けてもらい番頭に渡すのである。小さな呉服商にはそれぞれ行きつけの同業者があったという。あちこち倉庫かわりの同業者の店に駆け込む丁稚どんの役を「走り」と称していた。
 丁稚どんの経験をした方が、丁稚どんの仕事ぶりについて語っている。
 『呉服屋で働く丁稚さんは滅私奉公、修行である。将来の独立をめざしての勉強であった。朝は暗いうちから店の前を掃き清め、廊下から便所まで掃除をする。通いの先輩店員たちが出勤して来るころまでには火鉢に火をおこし、威儀を正して売り場に控えていなければならなかった。丁稚さんは全員住み込みだが寝室といったものはない。大売り出しで荷が多いときには階段下などに布団を敷き睡眠をとった。当時は、朝明るくなって客がくればそれが開店時間。夜は10時ごろまで,とにかく客足が途絶えるまで店を開けていた。営業時間の申し合わせなどというものは勿論なく定休日もない。休みは盆と正月それに神武天皇祭(4月3日)だった。みじめな下積み生活といえばその通りだが、当時は全く苦にならなかった。何事も修行だと一途に思いつめていた』(丸屋創業八十年記念誌)。
 絵図2は石灯籠通りに面したカネヤマ呉服太物商山下商店」である。山形屋よりもカネヤマ呉服太物商山下商店というのが当時の感覚で、現在の堀江町19-6(協栄ビル、ホテルサンフレックスカゴシマ)辺りにカネヤマ呉服太物商山下呉服店」があり、向側の堀江町12-20(現在の薩摩澱粉会館)辺りに「山下呉服店陳列工場」があった。
店には客の相手をしている番頭たちがみえる。将来独立したときのために多くの客と馴
染みになっておく必要から、番頭たちはそれぞれ競争しながらの営業であったという。
奥には土蔵らしい建物がみえる。番頭に指示された丁稚どんは土蔵の中から商品を探して持ってきたのだろう。倉庫をもたなかった小さな呉服商が駆け込んだ同業者のひとつがヤマカネ呉服太物商山下商店であったという。
絵図2 カネヤマ呉服太物商山下呉服店
左端には格子部屋が描かれている。筆頭番頭が座っていて、上得意の客には座敷に上がってもらい反物の品定めをした部屋なのかもしれない。

 次の絵図3は山形屋である。11代藩主島津重豪は積極的な規制緩和を行い、他国からの入国を自由にしたため、藩の許可を得た山形屋の創業者は安永元(1772)年、山形から鹿児島に来て店を構えた。店は現在の山形屋1号館と2号館との間、「木屋町通り」にあ
った(木屋町通りの石碑が明石家の横にある)。明治22年の版画なので店構えは創業期
より大きいはずだ。店先の日よけ暖簾に描かれているマル岩「○岩」は、現在でも包装紙の片隅に小さく描かれている。店には広げた反物が見え、それぞれ火鉢が置いてある。

絵図3  呉服太物商山形屋商店
 L字になった上がり口の右端に格子部屋があり、その前には筆頭番頭らしい人が座っている。
山形屋は本店の他に、石灯籠通り「古着商・山形屋商店、石灯籠通広馬場角堀江町」(みずほ銀行東角、明治40発行地図)、絵図4の「古着商・山形屋支店、石灯籠通広馬場西北角」(山形屋立体駐車場付近)などがあった。

絵図4 古着商・山形屋支店・石灯籠筋通広馬場西北角

  現在電車は山形屋の前を通っているが、石燈籠から鹿児島駅まで電車を通す計画が持ち上がったとき、路線は広馬場通りを抜けて鹿児島駅に至るという案であった。
 ところがこの案は、所有地の一部を線路敷地に取られることや騒音で客が遠のくとして、広馬場周辺の商店主たちの猛反対にあい宙に浮いてしまった。当時メインストリートであった広馬場通りは銀行や老舗大店が並んでおり、いわば鹿児島の経済の中心地であった。そこで山形屋は、店裏の「加治木町通り(現在の電車通り)」に電車を通す代案を申し出た。申出には軌道敷地の提供、建物移転費用の自己負担などが含まれており、代案は直ちに採用された。計画は加治木町通りに電車を通すよう改められ、建築工事中の山形屋は加治木町通り側に玄関を向けた。大正3年10月の電車の開通で人の流れは変わってしまい加治木町通りが新しいメインストリートになった。電車の窓から山形屋のショーウインドーが見える効果は大きく客足が増えたという。一方、広馬場通りや石灯籠通りからは客足が遠のき、石灯籠通りから他に支店を出す店舗もあったようだ。大店のカネヤマ呉服太物商山下商店は石灯籠通りに残り、大正元年、ルネサンス様式の3階建て洋館を構え「明治屋呉服店」と改称した。明治屋呉服店は昭和6年に高見馬場に(中央ビルあたり)移転することになったが人の流れを呼び戻すことはできなかったようだ。
 電車路線の変更は広馬場通りや石灯籠通りの様子を大きく変えることになった。

    石灯籠通り等の商店

   
                                        

 
   




























































鹿児島独案内(木版画集)から

汽船廻漕・旅人宿
 汽船廻漕問屋并に旅人宿   岡部新太朗 潮見町 石灯籠通
 汽船廻漕問屋并に旅人宿   渡辺平兵衛  潮見町 石灯籠通
 汽船廻漕問屋并に旅人宿   池畑太平治  潮見町
 汽船廻漕問屋諸国御定宿酒類売捌所 酒匂一郎    住吉町 石灯籠通海岸
 諸国商人御定宿并に諸品売買所  田原甚左ェ門   泉町  石灯籠通
 荷請問屋汽船廻漕店旅人宿  共栄社汽船取扱所 小野嘉平  生産町 海岸
 御定宿并に畳表商  島名半次郎  石灯籠通海岸角
 大阪商船会社鹿児島支店           潮見町
 御定宿 吉田源太郎   中町通  吉田書林向い

② 呉服 
 呉服太物琉球反物商  和田店      石灯籠通
 呉服太物商  山下商店     堀江町 石灯籠通
 古着商      山下源助     堀江町 石灯籠通
 古着商      山形屋商店   堀江町 石灯籠通広馬場角
 呉服太物商  山形屋商店   金生町
 古着商      山形屋支店   金生町 石灯籠筋通広馬場西北角
 呉服太物琉球反物商鹿児島授産物製縞并に古着類及び洋服裁縫所 藤安店  中町角
  琉球反物類薩摩飛白類呉服太物商 藤安支店    中町
  中町呉服太物唐反布類 緑屋  中町角
 呉服太物琉球反物古着商  淵上本店  松原通西本願寺前
 呉服太物琉球反物西洋小間物商  淵上本店  上馬場通入口
 筑前博多織帯地商并に履物商   博多支店  宮本卯吉   松原通西本願寺前角

③ 国産煙草製造所
 国産煙草製造所  鶴田孫次郎        住吉町  
 国産葉莨刻煙草売捌所  笹貫市之丞  住吉町 
 薩摩名産刻煙草製造本舗 煙草舎  藤崎専左ェ門  煙草組合事務所  堀江町
 国産葉莨刻煙草売捌所   横山栄三   堀江町  菩薩堂通
 国産煙草製造所  名産堂 林伊兵衛   金生町
 国産煙草製造所  小島甚兵衛         中町通野菜町角
 国産煙草製造所  日新堂  藤井孫太郎     車町 
 国産煙草製造所  村山直右ェ門        車町 
 薩摩名産刻煙草製造本舗 共栄堂  林徳二郎  生産町  
 国産煙草製造所売薬請売業  一新堂  (松田経営)納屋ノ上
 国産煙草製造所  中村仲助               呉服町 
 国産刻煙草卸小売捌所  主撰堂  白川正吉 船津町
 国産煙草製造所  福留源熊      生産町 
 国産煙草製造所 林治右衛門  山下町 
 薩摩国産鹿児島県授産場製造紙巻煙草大販売所 藤崎支店 山下町 
 国産煙草製造所  榮山堂  山口仲兵衛  東千石馬場町 

④ 砂糖
 砂糖泡盛昆其外種々卸商  松元権右ェ門  堀江町 菩薩堂通
 砂糖泡盛昆布素麺石油商 服部与次郎    潮見町 石灯籠通
 砂糖卸商 村山治太郎   潮見町 納屋之下通
 鹿児島南島興産商社      住吉町

⑤ 陶器店
 国産竹器陶器製造所 玉利正太郎 潮見町 旭通

⑥ 肥料
 肥料商 池田正徳     生産町 

⑦ 漆器
 琉球産上方漆器商  古川支店   金生町 

⑧ 靴製造
 靴製造所 川セ商店   六日町 広小路
 靴製造所軍用革細工所  鎌倉屋  竹之内金次郎   東千石馬場町  東千石馬場町
 靴製造所 増田治郎                           東千石馬場町  裁判所門間

⑨ 筆墨商
 筆墨商  小倉織物所  森田治兵衛   山之口馬場  地蔵角

⑩ 書林・書籍 
 書林 文世堂 吉田幸兵衛   中町      (書林:書店)
 書籍雑誌類大販売所文具類一式諸国売薬  富山仲吉 山下町  旭通
 和漢洋書籍学校教育書類文具類一切  池田保輔  中町 松山通
 書肆(しょし) 寿山堂 青木泰次郎  中町 金生町通  (書肆:本の売買)

⑪ 萬問屋  (萬問屋:港湾であらゆる業種を営んだ問屋)
 萬問屋 松山貞太郎  朝日通

⑫ 小間物商  洋物
 萬小間物卸商   黒松清兵衛   広馬場通納屋ノ下角
 萬小間物卸商   内埜猪之助   中町 松山通
 西洋小間物商   水間満次郎   中町  石灯籠通上角
 西洋小間物商   松元庄太郎   大黒町  菩薩堂通
 洋物商         藤武支店     中町 松山通
 洋物商         藤武喜助     中町納屋ノ上

⑬ 細工物 
 名産錫細工処 星山武八郎    六日町  朝日通警察署向
 名産錫細工所  村原藤助跡(村原晨之助)    呉服町 呉服町

⑭ 印刷所
 諸版印刷所 拡業舎藤武活版所  松山通俊寛堀側

⑮ 貸座敷
  青柳楼青柳忠三支店 向江町   上向江町

⑯ 洋裁
 洋服裁縫処 大和矢支店 中町角
 洋服裁縫所  枝元伊太郎  中町  中町松山通
 洋服裁縫処  春田吉二郎  松山通
 洋服裁縫所  木村小一郎  山下町 電信局横

⑰ 金物商
 和洋鉄銅金物商 北元文蔵 大黒町 菩薩堂通
 和洋鉄銅金物商 北元支店 大黒町 菩薩堂通
 諸金物商度量衡売捌所  古川正助  下加治木町  (測定器機販売)

⑱ 諸紙商・絵具・打綿・傘具
 諸紙商  藤武信兵衛 中町 野菜町通
 打綿綛糸諸紙絵具類其外傘道具一切 田辺善兵衛支店

⑲ 理髪店・湯
 名山床 内山伊兵衛    山下町
 神泉延寿湯 藤崎宗兵衛 泉町  

⑳ 料理店
 御料理仕出し并に貸座敷  一蝶楼さいとや  浜町 上浜町
 料理店 貞福亭 井上勇太郎   松原通町 松原通町大門口
 御料理  萬勝亭         大門口
 御料理  春風楼  平田喜左ェ門  松原通町 松原通町大門口
 御料理  青柳楼  青柳忠三      大門口
 御料理  松原亭  木村休八      大門口
 御料理  玉川屋  内村与右ェ門  中町 松山通西本願寺前
 御料理  うなぎ萬国亭池田屋    松山通俊寛堀側
 御料理  うなぎ芳野屋          松山通俊寛堀南側

21 銀行
 第五国立銀行鹿児島支店   築町  築町

22 別荘
 青柳忠三別荘  山下町 山下町
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⑤ 「坂本村と西田村の村界について」

唐鎌祐祥

  『三國名勝図会』は城下の寺社等の所在地を、中福良以東は坂本村は「坂本村に属す」とし、以西は甲突川を越えて武岡などの台地付近まで「西田村に在り」とかと記している。現在の鹿児島市の町界の分布から考えると途惑う。
今回は坂本村と西田村の村界について小見を述べてみたい。
 図表1は『三國名勝図会』の「鹿児島」の神社所在地を一覧にしたものである。これによれば旧城下の神社は坂本村と西田村に所在している。旧城下は古くは坂本村と西田村からなっていたことになる。
   図表1 『三國名勝図絵』(鹿児島)の神社所在地

  同書によると萩原天神社は「むかし武村萩原門の農夫負ひ来たり安置す」とあり、同社は「西田村に属す」とある。天保年間『鹿児島城下絵図』には現在の西千石馬場町に描かれている。新屋敷町にある船魂廟(神社)は武村船手にあり武村に属している。萩原天神社、塩竃神社等の所在地が甲突川を東に超えているのにどうして西田村、武村の所属なのか。現在の甲突川から考えると交通障害となり、西田村や武村の村界は甲突川までと考えるのが普通ではないか。鹿児島城下では甲突川が村境にはならず、甲突川を挟んで村域が広がっている。
 現在の東千石町、西千石町、加治木町一帯は旧甲突川の氾濫原や城山台地などの湧水地帯で、萩原、窪田(窪田瀬)とよばれ天神池や諏訪社(現清滝公園北側)の池などがあった。諏訪馬場の地名は諏訪社に由来するものであろう。萩原天神社は旧厚生市場、今の城山ストアの駐車場付近にあり、天神池は谷山街道との交差点の南西角地にあった。天神馬場もこれらに由来するものであろう。
 交通の障害となる河川が境界になる時は一般的に流路に合わせて境界は設定されるが、河川の流路や流水量は必ずしも不変ではなく、境界の変更を余儀なくされることがある。
 前回「甲突川下流の流路の変遷」で述べたように、古くは、あるいは鶴丸城構築以前は、甲突川本流は柿本寺の下から城山山麓辺を東流し俊寛堀前を流れ海に注いだという。鶴丸城の下方限の土木工事が進むと、先の本流は清滝川に付替えられ、下方限の工事が終わると「浅き砂川」で、一支流であった現在の甲突川に付替えられて、流量が増し大きな河川なったと考えられる。
 寛文10(1670)年頃のものと推定される町割図によれば甲突川は「浅き砂川」(五味克夫名誉教授『文政5年鹿児島絵図』鹿大史学26号)、 『海老原清熙履歴概略』には「今の川筋は浅き瀬にて水は流れたる由なり」とあり、歩いて渡れる小川ではなかったと推測される。この甲突川は交通を妨げる自然の障害ではなく、村の境界となるほどの川でもなかったと考えられる。甲突川は、一時本流であった清滝川の上流を人工的に争奪し本流となり現在のような大きな河川となった。
  前回に述べたように甲突川の「本の川筋」があった証拠を残すため、「甲月八幡宮」が義岡平太の屋敷付近に建立された。その後「近年義岡弾正殿御代御立願の故も有之候哉只今の所へ御勧請」とあるが、新しく移転した甲月八幡は、『旧薩藩御城下絵図索引』(塩満郁夫編)によれば「甲突川の右岸沿い 武之橋の北」にあり、ここが勧請後の位置であろう(図表2参照)。
 図表2 甲月八幡          

 義岡弾正は義岡平太の次の後継者である(安政6年『旧鹿児島城下絵図』)が、「近年」というのは本史料が作成された明和5~8(1768~1771)年に近い年代であろう。
 前回はなぜ甲突川右岸に移されたのかその理由については不明としたが、甲月八幡の創建主旨によると移転勧進する必要はないとも考えられるが、何れにしても本流が現在の甲突川になったことと関係があると考えている。
 現在、甲突川は流域の町々の全ての町界となっている。本流となった甲突川は西田町・武町を分断したが、村名・村域名はそのまま残ったと考えられないか。
 南林寺は「坂本村と武村の界に属し」とある。南林寺は南北に長く延びた低い丘陵地中福良の中央部に在る。中福良は両村の境界で、西側は西田村の村域で、東側は坂本村であるということではないか。先の表の西田村に属する神社は何れも中福良の西側に在る。時代を経て、おそらくこのことは日常的には意識されなかったが、公的な地歴書などだけに記載されたのではないかと考えられる。
 『御家兵法純粋』に「今の中福良は吹上の浜の小形にて砂の吹上にて地面高く奇麗なりと云へり。中福良の西南はすべて田地なり。今の南林寺の堂司辺千立山とて近代までしげりたる平山ありし」とある。吹上は卓越風の強い海岸近くに形成される砂丘で、吹上の浜は日本三大砂丘の一つ薩摩半島西岸の吹上浜、小形の吹上は中福良のことである。南林寺付近の平山を千立山といっていたらしい。山之口馬場の山之口という地名は千立山、南林寺への登り口の意であろう。
  『玉里文庫目録』によれば同書は示現流の達人、久保之英の著とある。「天明8(1788)年7月21日起筆、寛政元(1789)年4月8日書終」とあり、例言には「此古老之云伝ヲ以書載事多シ」とある。主に古老の言い伝えを記したもののようである。
 古い鹿児島の地は、この吹上(中福良)を境に坂本村と西田村からなっていたのではないかと推論される。
 『三國名勝図会』(鹿児島)の神社、寺院の分布、「南林寺は坂本村と武村の界に属し」、「(甲突川は)浅き砂川(浅き瀬)」などを根拠に西田村・武村の村境の不自然さの理由を指摘したが、単なる浅見かもしれないが予て考えていたことを述べてみた。
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