2019年7月4日木曜日

⑧ 「千石馬場」

北 隆志

 島津18代当主家久は、鹿児島城の築城を始めるとともに近世城下町の整備に着手した(慶長7(1602)年~)。中世上山氏の居城城山を取り込み、東南の麓に居館を構え家臣団の屋敷を周囲に置き、さらに、町人を家臣団の外側に居住させるなど十数年の歳月をかけて城下の形を整えた。このような城下町の形成のなかで、一門一所持等大身の屋敷を配置して千石馬場と名づけた。現在の東千石町・西千石町である。
 千石馬場は鹿児島城下の出入りの表街道で参勤交代道でもあった。参勤では御木屋場隣の空き地(国合同庁舎あたりから旧県警本部付近)に集合し行列を整え、桝形御門から千石馬場を進み西田橋を渡り西田町(にしだまち)に入る。町屋が一直線に続く西田通り(西目街道)から丁門(ちょもん)を過ぎて新溝筋(石井手)の筋違(すすけ)橋を渡り水上坂を上った。
 余談になるが、大河ドラマ「西郷どん」のなかで、藩主島津斉彬と西郷小吉(隆盛)との最初の出会のシーンに「このとき斉彬が薩摩に来た記録はありません」とナレーションが入って話題になったが、ドラマとは違い二人が最初に出会った場所は水上坂であった。
 安政元(1854)年斉彬が出府する際、西郷も従者のなかに加えられた。斉彬が西郷を初めて見たの1日目、1月21日西郷隆盛28歳、着替や休憩をする水上坂の御仮屋(『鹿児島市歴史地理散歩①武岡山麓古道と西田町通り(唐鎌祐祥)』に掲載した『図3薩州鹿児島郡西田村絵図(東京大学史料編纂所蔵)』を参照)であった。斉彬は、「西郷はどの者だ」と聞いただけで西郷との会話はなく、江戸藩邸に着いてから西郷を呼んだという。西郷の初めてのお目通りは江戸でのことであった。
  話が逸れたので話をもどすが、千石馬場は、照国町交差点付近から西田橋までの通りを言った。天保13(1842)年頃とされる『鹿児島繪圖文政前後』を見ると、照国町交差点付近に佐志屋敷(佐志島津家)、御舂屋(おつきや)、伊勢屋敷(伊勢家)がある(絵図1)。

絵図1鹿児島繪圖文政前後
天保13(1842)年

東千石町地図

 佐志島津家は島津義弘の娘御下の遺領を基に、島津義弘の五男(三男格)島津忠清を初代とする島津家の庶流で、家格は一所持、宮之城佐志郷の領主で禄高は二千六百七石(薩陽武鑑)、南泉院馬場沿いから千石馬場通りに三千坪の屋敷があった。照国町14~16番地、酒販佐土原本店、旧照国堂、中原別荘、国道3号から相光石油を囲む区域が屋敷地で、門は千石馬場に面していた。
 『鹿児島繪圖文政前後』では「島津将監」と 表示されていた屋敷は、『旧薩藩御城下繪図安政6年』(1859年)では「島津壬生」となっ ている。島津将監は島津将監久品(文化2年、縫殿、天保5年、将監)、島津壬生は久品の末子島津壬生久厚である。高麗橋を渡って中州通り(現在は高麗本通り)沿いに1町程の下屋敷があった(『鹿児島城下絵図索引』)。 

千石馬場の入口照国町交差点
右角:佐志屋敷 信号の先左角:伊勢屋敷

 御舂屋(おつきや)(3,211坪)は藩の役所で、同じ敷地内に御舂屋、御客屋、評定所の三つが置かれていた。御舂屋は、藩庁の味噌、醤油、酢などの管理や、評定所や御客屋への仕出などを行い、御客屋は、幕府や他藩の使者の待や宿泊のための客舎であった。評定所は、寺社奉行、勘定奉行、町奉行だけでは決められない重要なことを裁定した。
 明治になって一時県庁が置かれ(明治4年10月~翌年2月)、明治8年4月からは警察局が置かれた(『天文館の歴史』)。
 テンパーク通りを挟んで伊勢屋敷である。伊勢家は当初「有川」姓であった。伊勢家の先祖有川貞清は、島津義弘に仕え飯野(えびの市)に居住していたころ、弟貞真(さだまさ)とともに「有川」から「伊勢」に改姓した(『本藩人物誌』)。伊勢家は、弟貞真の二男貞昌(弥九郎)が継承したが、貞昌の嫡子貞豊が死去すると世継がいなかったため、18代当主家久に願い出てその十三男貞昭を継嗣としている。
 慶長4(1599)年3月9日、家久は豊臣秀吉の寵愛を受けていた伊集院忠棟(幸侃)(こうかん)を伏見の島津宅茶亭の路地で樹木の品評しているところを手討にした。すぐさま書状を三通作成して事の始末を徳川家康、石田三成、寺澤正成(秀吉に仕え九州の大名への取り次ぎを担当、長崎奉行)に届けさせた。家久は、自ら謹慎の意を表して高雄山高尾寺(京都市右京区)に入ったが、貞昌と家康とのかねてからの交わりが助けとなった。家康は三成を押さえて、「国君たる者が叛臣を誅するのは当たり前のこと、咎めるべきでない」として家久の蟄居を解かせた。このあと家康は、一族の襲撃に備えて家久のもとへ百騎を遣わし、高尾寺から伏見邸まで警護をさせている(『西藩野史』・『鹿児島県郷土史大系島津中興史』)。関ヶ原合戦の後、貞昌は江戸家老を務め幕府の要人や多くの大名とも交わり、島津の名臣といわれた。九州征伐、朝鮮出兵、関ヶ原の敗戦、外様大名として幕府対応など島津家に大きく貢献した伊勢兵部少輔貞昌は、寛永18(1641)年72歳で病死している。時代はくだり、前田邸に将軍綱吉がお成りの際、前田家から献上された名刀がある。貞昌が差していた「伊勢左文字」で、刀名は伊勢貞昌が所持していたことに因む(『寛政重脩諸家譜』)。
 絵図の伊勢雅楽は伊勢貞章のことで、家格は一所持、末吉郷岩川村の領主で禄高は六千三百十四石であった。屋敷は三千五百十七坪、東千石町5~6番地、南国タクシー営業所、千石天神、セブンイレブン(旧大辻朝日堂)、萩ビル(萩寿司)、緒方ビル(すえひろ)を囲む区域が屋敷地であった。
 文化通りを超えると、鎌田杢之丞屋敷と梅田九左衛門屋敷がある。
 鎌田家の先祖は相模国の住人で、島津氏始祖忠久が薩摩・大隅・日向三州に亘る摂関家領島津荘地頭職に任じられた文治2(1186)年、鎌田政佐は、本田貞親、酒匂景貞、猿渡實信等三十数人とともに山門(やまと)院木牟禮城(出水市野田)に入り治所とした(『三國名勝圖會』)。

奥の県歯科医師会館付近  鎌田屋敷
左のザビエル教会付近 梅田屋敷


 鎌田杢之丞政典は、鎌田家14代家嫡政經(まさたつ)の三男政常を祖とした鎌田家庶流で、8代政有、12代政昌、14代政與、16代政典など家老を輩出している。
 杢之丞政典は家老職、禄高千九百十七石(『薩陽武鑑』)、屋敷は千九百十七坪で、照国町13番地と12番地の一部、県歯科医師会館辺りが屋敷地であった。鎌田家(本家)は一所持格、肝付郡大姶良郡南村(鹿屋市)の領主であった。
 鎌田杢之丞屋敷の西側に隣接した梅田家は、代々薩摩藩の槍術師範を務めた。先祖の梅田杢之丞治俊は、甲賀郡に生まれ徳川家康の旗本であったとある。諸国剣客を歴訪して槍術の極意を修得、慶長5(1600)年8月伏見城で戦死している。子の梅田杢之丞治忠は、創意工夫を加えて本心鏡智(ほんしんきょうち)流槍術を開いた(『甲賀町史・人物誌』)。杢之丞治忠の二男九左衛門治繁は、槍芸を島津20代当主綱貴に認められ、元禄9(1696)年7月、御馬廻役をもって薩摩藩に召抱られた(のちに御納戸役、物頭)。江戸にあって本心鏡智流槍術を指南していたが享保12(1727)年、妻子とともに薩摩へ移っている(『三州御治世要覧』・『三部合本』)。薩摩に入国してからの梅田家は、梅田杢兵衛盛庸(もりつね)(門人多しとある)、盛庸嫡子九左衛門盛住(もりすみ)、盛庸二男九左衛門盛香(もりか)、九左衛門治教と続いた。 槍術指南役梅田家は代々小番に列せられた。禄高二百石(嶋津分限帳)、屋敷は五百四十八坪、照国町13番地の西側、ザビエル教会、カトリック鹿児島司教本部あたりが屋敷地であった。

 德永屋本店(店舗)、崎元病院、厚地脳神経外科病院、ザビエル公園にかけて、伊勢家下屋敷、島津右門屋敷、上原源兵衛添地、上原源兵衛屋敷などがあった(絵図1)。
 伊勢家の下屋敷は四百四十六坪、東千石町4番地の東側の德永屋本店(店舗)を含むあたりが屋敷地であった。
 隣接しているのは島津右門の中屋敷である。島津右門とは佐多島津家島津右門久福(ひさとみ)のことで、元服した時に太郎次郎久福と名乗り、後に右門久福と改めた。島津右門久福は、島津4代当主忠宗の三男、忠光(*七人島津の一人)を祖として佐多姓を名乗った島津家庶流である。佐多姓でありながら島津姓を名乗っているのは、佐多家16代当主豊前久達(ひさみち)(島津19代当主光久の五男)以降長男家に限って島津姓の使用が許されるようになったためで、久達は正徳元(1711)年、佐多豊前久達を島津備前久達に変えている。(『本藩人物誌』)。島津姓となった久達が、駕籠で登城する様子が『薩陽落穂集』に記されている。
 「備前殿は毎日の御出勤にも先供三人づつ、片挟箱、手鑓(柄が標準より長い鑓)立笠(たてがさ)(ビロードや羅紗の袋に入れた長柄の傘)惣屋やつこに而御屋敷より千石馬場小路に御下りにて御出仕・・・」。
 右門久福は若年寄、家老を務め、文久3(1865)年、家老を辞したあと家督を久?に譲っている。家格は一所持、知覧が本領で禄高七千一石(『薩陽武鑑』)であった。屋敷は、四百五十坪、東千石町4番地の一部で、崎元病院、厚地脳神経外科病院あたりが屋敷地であった。           
 『鹿児島繪圖文政前後』では「島津右門」と表示されていた屋敷は、『旧薩藩御城下繪図安政6年』では「島津伯耆」となっているが、佐多を名乗っていた時代は嫡子が伯耆を名乗っていたことから、安政3(1856)年、右門久福が家老を拝命したことを契機に「伯耆」に改めたものと思われる。南泉院の西、現在の照国町5~7番地には三千七百七十一坪の上屋敷があった。『知覧郷土誌』に島津右門久福について、「温厚篤実しかも威容おのずから備わり、上下の畏敬を集めた」と記されている。
 *七人島津の成立
文保元(1317)年、島津4代当主忠宗は、二男忠氏(和泉氏)、三男忠光(佐多氏)、四男時久(新納氏)、五男資久(樺山氏)、六男資忠(北郷氏)、七男久泰(石坂氏)などの息子たちに所領を与え分立させた。

 島津右門屋敷の隣に上原源兵衛屋敷があった。観応2(1351)年の頃に「上原源右衛門尉藤原尚氏、子孫は上原源右衛門」とある(『本藩人物誌』)。慶長の頃上原源右衛門は島津家久・豊久の家臣であった。関ヶ原の合戦において佐土原城主豊久が戦死、戦後処理として佐土原が没収され、家臣団は吹上永吉に移り新たに永吉島津家が創設された。初代を家久、2代を豊久として、3代は喜入摂津守忠續の長子忠栄、以降久籌(ひさとし)から明治まで続いた。
 吹上町誌には、山元泰来の二男として生まれた源兵衛は上原氏の跡を継ぎ上原源兵衛と称し、藩の通辞を務めたとある。源兵衛の三男が上原源之丞で、安政7(1860)年34歳のとき児玉甚蔵の養子となった。江戸幕府の昌平坂学問所に学び、藩校造士館では教官となった。また、絵画や詩にも長じていて児玉天雨と号した(『薩藩畫人傳備考』)。
 養父の児玉甚蔵は、薩摩藩が苗代川を立て直すため弘化3(1846)年南京皿山窯を建設したとき、絵付師の一人として苗代川で絵付けを指導した人であった。
 上原源兵衛の屋敷は東千石町4番地、崎元病院、ザビエル公園あたりに添地百五十坪、屋敷地五百五十二坪があった。 

 二官橋通りを越えると町田監物屋敷である(絵図2)。島津家2代当主忠時の七男忠經(ただつね)には4人の男子があった。長子宗長は給黎院を領し、三男忠光は町田氏の祖となった。

絵図2 鹿児島繪圖文政前後
照国町・西千石町地図

 また、四男俊忠の子久兼は、図書助と称して伊集院氏の祖となった(『鹿児島縣郷土史大系第三巻島津創業史』)。
 忠光に始まった町田家は、11代高久の時、島津9代当主忠国から石谷を与えられ「石谷」と称した。15代忠栄(ただよし)(伊賀守)の時には、日新父子(島津忠良・貴久)に土橋の町田と石谷を領地として認められて、再び「町田」姓に戻している。
 天正20(1592)年7月、島津四兄弟の一人島津歳久の討手方となった18代久倍(ひさます)(義久の家老)、忠綱、久幸(家久の家老)、20代久幸に子供がなく家久の六男忠尚を養子にして、21代とした。寛永13(1636)年頃には、新橋に3,024坪の屋敷(天保年間絵図の北郷屋敷の位置か)、千石馬場に2,130坪の屋敷、さらに、西田にも屋敷があった(『町田氏正統系図』)。続く久東(孝左衛門)、元禄3年11歳で久居(助太夫)は久東から家督を継いだ。久居は新橋の邸宅が罹災したため元禄10(1697)年、新橋邸から千石馬場邸に居住地を移している。
 天明8(1788)年、久視(ひさよし)が13歳で町田家26代当主となる。久視は文化4(1804)年に大目附、同年4月国分地頭を拝命した(のちに家老、監物三笑)。
 久視は画をよくしたらしい。文化8(1811)年7月のこと、太守斉興は御休憩所の小棚のふすまに西湖山水画と百鳥図を久視に画かしてこれを賞め、八丈島の織絹三反を与えた。斉興は再び御休憩所で宴を開き席画を求め久視が固辞することを許さなかった。久視は二枚画いて仕上げた。宴会が終わった後斉興は、久視に狩野洞伯の虎画を一幅贈った(『町田正統系譜』)。町田正統系譜(四十冊)及び宗図一巻は、文化9(1812)年、久視が編集したものであった。
 幕末の当主久成(民部 大目附・開成所学頭)は、中央駅前広場に建っている薩摩藩留学生十五人群像の一人で、慶應元(1865)年3月英国に留学した一行には久成の次弟、町田申四郎実積(さねつみ)(18歳)、末弟、町田清次郎実行(15歳)も選ばれている。
 明治維新後新政府に出仕した久成は、明治2年外務大丞、明治4年文部大丞、明治14年農商務大書記官に就任、翌15年に国立博物館館長になったが10月官界を去った。
 野に置くことを惜しんだ政府は明治18年元老院議官を任命するが、この年突如官を辞して僧となり諸国行脚に旅立った。晩年滋賀県大津の三井寺山内光浄院の住職とし仏事に尽くし、明治30年9月、60歳で生涯を終えた(『松元町郷土誌』)。家格は一所持、石谷領主、二千九百二十三石(『薩陽武鑑』)、絵図2『鹿児島繪圖文政前後』に記されている「町田監物」は久要、『旧薩藩御城下繪図安政6年』の絵図に記されている「町田監物」は、久長(久成の父)と思われる。屋敷は二千百五十五坪、照国町1番地及び2番地、シティハウス照国(マンション)~ガストフ城山店までを囲む区域が屋敷地であった。
 町田監物屋敷の向いの鹿児島市立山下小学校のあたりに友野助七屋敷、大河平休四郎屋敷、池上清兵衛屋敷があった(絵図2『鹿児島繪圖文政前後』)。
 友野家は幕末に御用商人を務めた鹿児島城下士とある(『鹿児島県史料旧記雑録拾遺家わけ六・解題』)。『鹿児島繪圖文政前後』では「友野助七」と表示されていた屋敷は、『旧薩藩御城下繪図安政6年』では友野七郎左衛門となっている。「友野助七」と「友野七郎左衛門」は親子で、友野助七は友野助七長喬、友野七郎左衛門は友野七郎左衛門長賢である(『鹿児島県史料旧記雑録拾遺家わけ六・友野文書』)。
 『友野家家譜序』には、「源姓友野氏は信州小笠原信濃守長清の支族であり、長清の子長経(ながつね)の第五子中務少輔時長が友野姓を称した。子孫は代々甲州に在住していたということであるが、我が祖の発祥となる所を知ろうとしても徒に年数が過ぎ、一族もまた変わり記録も無くなってしまっているため祖のことがよく分からず、称号、諱・履歴をことごとく記すことが出来なく残念なことである」とある。
 また、「島津義久(龍伯公)及び島津義弘(維新公)の治世に、友野甲斐守入道元真君は、戦でたいそう手柄をたてた(永禄・慶長年間)。是を以て元真君を友野の祖とすることとする。友野甲斐守入道元真君を、私、友野家八代助七長喬の祖とする」と記されている。家譜序の最後に、「我家に書き残された書物を集めて編纂したものなどを旧記とした。嘉永七(1854)年7月、後孫友野助七源長喬謹誌」と結んでいる。
 友野甲斐守入道元真を初代とした友野家は、初代友野甲斐守入道元真、2代次郎右衛門、3代左近、4代七左衛門、5代次郎右ヱ門長年、6代五郎右ヱ門俊昌(養子・町田孫右ヱ門俊香の二男)、七郎右ヱ門長富(武州江戸にて死去、家督無之)、7代次郎右ヱ門長教、8代助七長喬、9代七郎左ヱ門長賢、10代長祥、11代小太郎と続いた。
 甲突川左岸ライオンズ広場付近の「友野晩村」は9代七郎左ヱ門長賢の弟「友野晩村長明」で、屋敷地は二百二十七坪(『旧薩藩御城下繪図安政6年』)、嘉永二(1850)年3月に別立している。友野助七の名は、『第七高等学校造士館記念誌』の「釋菜(せきさい)」(孔子祭)の役者一覧にも「読献詩者」として記されており、先の「上原源兵衛」で述べた上原源兵衛の三男上原源之丞の名前も「初献賛者」として並んで記されている。
 助七の子、友野七郎左ヱ門長賢については、『鹿児島県史料集第8集御登御道中日帳御下向列朝制度巻五六』に「伏見御假屋守(嘉永年間)」として記されている。
 江戸、京都、大坂の藩邸は「屋敷」と言い、責任者は「留守居」と称したが、伏見の藩邸 は「御假屋」 と言い、責任者である留守居は「守(もり)」と称された(昭和のはじめ伏見市は京都市に合併された)。
 また、『島津斉彬公七回忌追善詩歌集について(山下廣幸)』には、詠んだ歌と共に七郎左衛門の名前がある。「ななとせの昔の秋を忍ひてや草むらことに虫も鳴らん 友野七郎左ヱ門長賢」。友野助七屋敷は二百九十九坪、鹿児島市立山下小学校敷地のザビエル公園側に位置した。
 隣に大河平(おこびら)休四郎屋敷がある。大河平家の先祖は南北朝動乱期に南朝方の主将として奮戦した菊池家の支族である。菊池家は初代を則隆といい、6代隆直は安徳天皇を護衛して壇ノ浦の合戦で戦った。
 文治元(1185)年3月24日、安德天皇の入水で平家は滅亡する。このとき、隆直の嫡子太郎隆長と三男の祇川三郎秀直など一門の数人が殉死した。領地にいた隆直は、源義経と緒方惟能(これよし)(大分県豊後大野市緒方を領する)に攻撃され敗北し、城内で自害した(『えびの市史』)。

山下小学校(友野屋敷・大河平屋敷・池上屋敷)

 一説には、「菊池隆直は敗北して源義経に投降した。義経は、隆直と長年敵対していた緒方惟栄の要請により隆直の身柄を緒方惟栄に渡した。この後隆直は緒方惟栄により斬
首となった」(『平家物語』判官都落)とある。
 当主隆直が敗死した菊池家は、二男二郎隆定が7代を継ぎ後鳥羽院武者所に任ぜられた。四男真方は合志四郎直方と称した。大河平の始祖となる五男隆俊は、十家(木下・溝口・春口・八重尾・渡辺・内山・川野・松田・斉藤・黒江)を率いて菊池から肥後八代に移り、菊池姓を八代姓に改め、分領して八代五郎隆俊と名乗った。
 勢力を強め八代を統治するようになった八代家は、菊池本家と提携し南朝方の将となって各地を転戦した。初代隆俊から数えて12代目の隆屋の時に大友家と戦い敗れた八代家は、日向国眞幸(まさき)院飯野城主北原兼親を頼り、家臣六十六家を率いて眞幸院飯野郷大河平村に移りそこで北原家の家臣となった(『えびの市史』)。
 戦国時代になると八代隆屋が頼った北原家は、姻戚関係にあった伊東義祐に領地の全部を奪取される(永禄元(1558)年)。北原家に退潮の兆しがみえると、隆屋は永禄5(1562)年栗野城において島津義弘に拝謁し、主従を誓約して大河平の地を本領として賜った。これを機にそれまでの八代姓を大河平姓に改め大河平隆屋と名乗り、北辺国境警備を任されることになった。以降、島津家家臣としての大河平氏の歴史が始まる。
 元禄10(1697)年 、8代大河平休兵衛隆良は鹿児島旗本となることを願い、許されて鹿児嶋衆中(城下士)に任じられ、即大河平の在番を命ぜられている(『古記』・『鹿児島県郷土史大系 第七巻島津中興史・中』)。大河平家は、初代隆屋が永禄5(1562)年、島津義弘から大河平の地を本領として賜って以来、相良氏、伊東氏らの境目堅固番を代々勤めていた。
 予てからご助言をいただいている恩師から、「長男家は土地を継いで、二男家は身分を継ぐことが多いようだ」といわれたことがあった。大河平嫡家は千石馬場に屋敷、飯野郷大河平(えびの市)に旧宅と7,800?の山林を所有していた。
 明治になり西南戦争の最中、薩軍に従軍した大河平士族により、大河平家嫡家15代鷹丸一家が惨殺される「大河平事件」が起きた。
 事件は、官軍が人吉に、薩軍が小林に本営を置き両軍が川内川を挟んで対峙した。官軍が小林の大河平に入ることを危惧した薩軍は、大河平家14代隆芳の嫡子鷹丸に大河平の全村(60余村)を焼亡させた(鷹丸は西南戦争に従軍し、負傷して大河平の旧宅で休養中で、妻子は看護のため鹿児島の本宅から大河平に来ていた)。飯野越を守備していた薩軍が敗戦し、これに参加していた大河平家の臣下川野通貫・清藤泰助らは大河平に帰り着くが村の焼亡について聞かされておらず、灰燼に帰した郷村に驚愕し、怒った川野らは鷹丸、妻、幼児、乳児、従者などを惨殺した。犯人たちは官軍に投降して、鷹丸の父親大河平隆芳の追跡を逃れたが、西南戦争後捕縛された首謀者たちを告訴した隆芳は、裁判で納得がいかなかったのか、大隈参議宛て『大河平鷹丸妻子暴殺事件二関スル陳情書』(早稲田大学公開・罫線紙4枚)「口上手扣(ひかえ)大河平鷹丸妻子都合六名謀殺事件二付彌前裁判ヲ翻覆セラレ・・・・明治十三年十二月廿日大河平隆芳 大隈公閣下」と陳情書を送付している。首謀者は3回の裁判の結果死刑とされた。
 『鹿児島繪圖文政前後』では「大河平休四郎」と表示されていた210坪の屋敷は、17年後の絵図『旧薩藩御城下繪図・安政6年』では「大河平源八郎」となっている。
源八郎は休四郎の嫡子と思われるが調査不足のため捉えることができなかった。
 二男家の大河平源太左衛門(鹿児島士人名抄録)の屋敷は、谷山通りの東、高麗橋の南とある。『鹿児島繪圖文政前後』(天保13年)絵図、及び『旧薩藩御城下繪図安政6年』絵図のどちらにも描かれており、その屋敷は、新屋敷の中央警察署辺りにあった。

  整理を進めるうち、千石馬場は千石取以上の武士や島津氏の縁者ばかりでなく、藩の武術指南役、薩摩藩の御用商人を勤めた鹿児島城下士、軍事物資となる広大な山林を所有する城下士、通事など藩政上重要な役職等であった者も千石馬場に屋敷地がある。「千石馬場は千石取以上の武士」といわれたがそうではないようでもある。引き続き調査を重ねたいと考えている。

 次回は池上清兵衛、小林一學、諏訪直衛、義岡蔵人、頴娃織部など西田橋までを整理したい。
無断転写を禁じます

⑦「天神馬場・おはら通り・福徳ビル」

唐鎌祐祥
◆天神馬場
 天神馬場は行きつけの居酒屋やコンビニがあって馴染みの街である。アーケードの中の千石天神の明りが見えると自分の街を感ずる。高齢の男鰥(おとこやもめ)がこんな街の居酒屋を楽しめるとは運のいい奴だと思う。夕食のつもりがついやりすぎてふらふらになって帰ることもある。酔っ払いだから信号はきちんと守った方がいいよと、滅多にないことを帰省した息子が云った。だから信号には敏感だ。帰りに天神さんに賽銭をあげて、今日はこれで終りと決める。
 天神馬場にはピラモールができる前までは地方行きのバスが通っていた。春苑堂書店前の道路に車を止めて本を買っていたものだ。街が綺麗になってそんなことはもう忘れてしまいそうだ。
 千石天神は萩原天神を再建したものだ。『薩藩名勝志』に「天神馬場に鎮座。西田村に属す。(中略)。昔武邨萩原門の農夫他州より背負い下り安置す」とある。天保年間の絵図には、今の厚生市場の駐車場付近に萩原天神があり、向い角に天神池が描かれている。宝暦のころ、南泉院の池の数千匹の蛙が、この池にやってきて蛙同士が戦う。天神池から甲突川の方に行った窪田というところに諏訪社がありその境内に窪田諏訪池があった。諏訪池の蛙たちが天神池の蛙に加勢(かせい)して戦うこと四日間ようやく和平なり戦いは終わる。「天神池蛙闘(てんじんいけかわずののたたかい)」といわれ城下ではよく知られた民話のようだ。蛙闘が何を意味するのかは解らない。
 国道3号から天神馬場一帯はシラス台地の城山、吉野に降った雨水が伏流水となり湧き出でてできたのが天神池や諏訪池で、諏訪池は清瀧川の水源の一つであった。
 萩原天神は明治四年に磯天神に合祀されていたが、帝国館などの経営者の一人末弘虎治郎が建立委員長となり千石町の人々や券番、芸妓さんの寄金で、昭和十三年四月に建立されたと境内の碑にある。それ以来千石天神と呼んでいる。天神さんの位置に伊勢殿屋敷の正門があった。
 学業祈願のほかに、街中の神社らしく、商売繁盛、家内安全、健康祈願などの御利益(ごりやく)があるらしい。日本の神々は寛大で、家の宗教が浄土真宗である私の願いも聞いてくださる。私には結構ごりやく利益がある。鳥居、手水鉢なども当時の料理業組合、置屋業組合、芸妓一同が寄進したものだ。
 参詣者が比較的多いのは正月か、照国神社と同じ日に行われる六月灯の時ぐらいだが、ポツリ、ポツリと参詣している人のうしろ姿は、一瞬、街の喧騒から切り離された静寂の空間をつくる。新しい街、ピラモールにたたずむ朱の鳥居や神殿の建造物は天神馬場のアメニティ(心地よさ)を引き立てている。三浦展は「アメニティは歴史性、つまり都市や街の記憶である。古い物から新しい物まで、異なる時代、異なる世代の文化が重層的に存在し、街の中にそれがモザイク的に見え隠れしているような状態こそが重要である」といっている(三浦展『ファスト風土化する日本』)。
 千石神社は錦小路の錦天満宮や、新橋の烏森神社と比べるとたいへん地味だ。天神馬場のシンボルだからもっと綺麗に派手にして差し上げたらどうだろうか。

◆おはら通り
 昭和二四年十二月におはら通り(天神馬場~電車通り)が命名された時の記事は「鹿児島の繁華街、天文館の道路はそれぞれの装いをこらして文化街をかたちづくっているが、今度、樋渡ミルクホールの横から天神馬場へつらぬく道路にその名も郷土にちなんでおはら通りとして、ちかく客足の吸収に目新しい趣向を施すことになった。この通りには樋渡ミルクホール、小劇 、割烹、有村パンなどが軒を並べており、こんど、文化通りに仲間入りして、ますますにぎわいを呈するものと見られている」と戦後の天文館が復興する模様を伝えている。
 昭和二一年十一月、日置裏門通りは文化通りと通り名を変える。第一映画、セントラル映劇の映画館主が中心となり改称したもので、この付近には映画館、バス発着場、旅館などができ天文館地区では戦後最も早く復興した通りである。その影響をうけ、その裏路地のおはら通りも繁盛した。


 図は記事と同じ日に掲載された広告である。この広告に載らなかった店もあったと思われるが、今も屋号がそのまま残っているのは松木呉服店だけである。ミルクホールは和製英語milk hallで、牛乳を飲ませ、パンなどを売っている飲食店のことで、私にはその語感に懐かしい響きがある。樋渡ミルクホールは終戦直後の当時としてはハイカラな喫茶店風の店だったと、同じ通りに昭和二十年代末に開店した分家無邪気のお母さんが云っていた。同ホールは昭和二一年六月に西駅(中央駅)前電車通りに開店し、翌年の十一月ころにおはら通りにも開店し、吉田舟水画伯という人の日本画展覧会を開いたりしている。
 小劇は昭和二三年八月に山形屋一階にあった山形屋映画劇場が移転してきたものである。小屋の前身は文芸座という鹿児島初の新劇劇団の専属の小屋で文化劇場といった。劇場は昭和二一年十一月に落成している。文芸座の座長は寺園純夫という人であったが、広告の「大衆食堂・やき鳥 文六」の寺園純夫という人と同一人物ではないかと思っている。昭和二十年代初めの鹿児島の演劇運動に係った人である。松露のところが現在の黒岩ラーメンである。昭和四十年ころだったか、電車通り側の日置荘付近の地下にムーランという美人ぞろいのスナックバーがあった。
 現在、おはら通り名は使われてはいないが、この通りは天文館でも指折りの魅力的な路地である。ざっと見ても、鹿児島名物のラーメン店が三軒もあり、鹿児島市を代表するおでん・焼き鳥店が三軒、女性に人気のある喫茶店、レストラン、市内ではほとんど見られなくなった老舗の呉服店、時計店、すし屋、最近、郷土菓子店、そば店もできた。
 こむらさきラーメンの東脇から入る細い通路の奥に天文館湯という銭湯があった。高度成長期に家族風呂が多くなり入浴客が減り廃業した。映画館と書店、特に、あの小劇が残っていたら九州を代表する路地の一つになっただろうと思っている。個性のある小さな店が並ぶ路地は魅力的で一日の疲れをいやしてくれる。人には思い出の詰まる路地が必要である。

◆福徳ビル
 文化通り南側入り口にあるセントラルビルは、昭和四九年に建て替えられる前は福徳生命ビルといった。きっと年配の方はこのビルに思い出のある方が多いと思われる。福徳生命ビルは昭和五年の暮れに落成している。三階建てで当時としてはモダンなビルであった。ロシア革命(一九〇五~一七)で日本に亡命してきた白系ロシア人のチエレバノフ兄弟、スターデニック、スリヤピンという人たちが天文館で洋服店を経営していた。スリヤピンの洋服店は昭和十二年頃は福徳ビル一階の電車通りに面するところにあった。戦後は戦災で焼けて色あせていて、現在六〇代の山下小、松原小、甲東中学校出身の元シティー・ボーイたちには幽霊ビルと呼ばれていたらしい。
 昭和二二年、鹿児島市は復興都市計画事業として、朝日通りから西駅(現中央駅)までの電車通り沿線の家屋を移転して電車通りを幅員三六㍍に拡張し歩道を設ける工事を行った。問題だったのは高島屋(現タカプラ)、福徳ビル、安田生命などの大きな建物をどうするかであった。高島屋は一階部分をぶち抜いて歩道にすることで解決したが、二三〇坪の福徳ビルにつてはなかなか解決しなかった。ビルは長い間歩道をふさいだままになっていて天文館のコブといわれていた。ようやく後方に移転することに決まり、昭和二九年二月に工事がはじまり、十一月にやっと終わりコブがとれた。どうして量ったのかビルの重さは千五百トンだったそうだ。
 移転と同時に、一階に当時鹿児島では珍しい福徳名店街ができた。昭和三三、四年ごろ名店街に勤務していたIさんによれば、谷川物産(乾物)、本田肉屋支店、山口水産、駒木鮮魚店、浜崎野菜店、四元野菜店、池田茶屋などの出店がならんでいた。特に鮮魚店、肉屋などは品が新鮮で割烹や大きな食堂の仕入れが多かったらしい。松原神社で大相撲の巡業があると力士たちがチャンコの食材を買出しに来たという。


 図は昭和四十年ころの福徳ビル付近である。本図は東京交通社の市街地図を利用させていただいたが、この種の地図の始まりは昭和三一年刊行の「鹿児島市住宅案内図」で、編集者は住宅案内刊行会の宮内久雄さんである。もう四十年以上も前のことだが、地図の掲載許可を宮内さんにお願いしたら快くOKをいただき嬉しかったことを覚えている。最近、同住宅案内地図がよく利用されているのを見かけるが、鹿児島市の高度成長初期を知る貴重な資料となっている。昭和三五年を最後に、東京交通社出版、ゼンリン鹿児島出張所などに出版社が変わっている。
 さて、現在に住宅地図のように厳密ではないが、地図は福徳ビルの一階から三階までが書き込まれている。文化通り側の外階段を登ると小さな広場があった。広場の回りに小さなバーが四、五軒並んでいた。昭和三〇年代、一番手前にシスターというマスコミの人たちがよく集まるバーがあった。例のクリスマスパーティの夜、筆者も居合わせ大人の世界を覗いたような気分になったことを覚えている。たしか三階には玉突場があり、高校生風の若い人たちが遊んでいて、田舎の中学校出身の私にはやはり都会の連中は違うなと思った。
 ビルの西隣の路地の立花通り(萩原通り―電車通り)には小さな飲み屋がぎっしり並んでいた。一九八〇年代後半のバブル経済のときに地上げでこの路地は消え、今はドンキホーテになっている。路地の中ほどの居酒屋に、なんこの強いことで知られた有名な姉さんがいて、周りから煽られて一度挑戦したことがあったが全く歯がたたなかった。現在までこの路地が残っていたら鹿児島の名所になっただろうに残念である。
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