2017年7月20日木曜日

① 「武岡山麓古道と西田町通り」

北 隆志
唐鎌祐祥

 古い新聞には記者が出勤途上や、夏の夜に出かけて見聞きした珍しいことを記事にするシリーズがよく掲載されている。この記者は常磐の辺りに住んでいて西田町通り(古称西田橋通り)、千石馬場を経て広口(広小路)にあった新聞社に勤務していたようだ。
 明治43年2月「甲突川河畔の人家は朝霧に霞み、人の影も ぼっと霞んでいたある朝」の模様が記されている。「田上あた辺りの姉御達が、人参、葱などを一杯入れた籠を担ぎながらワイワイ言って西田橋」を渡っていった。大正末までは、田上方面の人たちは荒田や武の東部に広がる沼沢地や水田のぬかる畦道をさけて武岡山麓の古道を回り道して、西田町通り経由で西田橋を渡っていた。
 昭和30年代初めまでは田上から武岡の山裾の地形に沿う小道が通っていた。武町は明治44年に鹿児島市に編入され、翌年の戸数は156 戸、人口724人で、集落は山麓に集中し ていた(『鹿児島のおいたち』p520)。民家は武大明神の下から南の沿道に多かった。


 (図1『鹿児島絵図』 文政前後) 

北側沿道には仏教排訴運動で廃寺になった壽 國寺(黄檗宗)や、常磐野元の笑岳寺(曹洞宗)などの墓地があった(図1)。壽國寺は「武村にあり高嶺を後ろに負い、曠田を前に臨む」と『三國名勝図会』にある。
 紫原から武岡にかけては西南戦争の激戦地であった。『靖国神社忠魂史』の明治10年6月24日に「官軍は薩軍を走らせ紫原、二本松付近の塁を奪取した」とある。『武郷土誌』によると二本松は「唐湊温泉場の西方の高地上に二本の松が生えていたので名づけられた俗称」の地名らしい。
 かつて、谷口午二画伯が「天文館の二本松馬場から紫原・武岡方面を望むと、崖に二本の松が夕日をうけて黒く浮き上がり辺りを圧し、その一瞬の夕景を賞で自分たちの住む馬場を二本松馬場といつしか命名したと、古老から聞いたことがある」と 何かに書いておられた。二本松馬場に真っ直ぐ夕日が射し込む時期、ここから眺める武岡・紫原台地のシルエットは実に魅力的で然もありなんと思う。夕日の沈む武岡を眺めるとこの地名由来を思い出す。武の小字五本松、鳥越峠近くの三本杉など樹木に由来する地名も多い。
 官軍大尉山本吉蔵は明治10年6月、武大明神ヶ岡で戦死したとある(『靖国神社忠魂史』)。山本吉蔵は2回内閣を組織した山本権兵衛の兄である。
 城山は鶴丸城の一部とされたので城山には入ることができなかった。山遊びが好きな城下の子供たちは武岡に良く登り遊ぶのが普通だった。山本吉蔵は幼友達らとふるさとの岡で戦い亡くなっていった。
 建部神社は古くは俗に大田大明神とかたけ武で 大めつ明さあ神ともいい当地の産土神である(『薩隅日地理纂考』P93)。確か境内に猫神の祠もあった。昭和30年ごろだったか、神社下にガラスの町工場があり、田舎者の私にはドロドロに溶けた液体がガラス瓶などに変わってゆくのが珍しくよく見に行った。
 武・田上地区土地区画整理事業は昭和42年4月に計画が決定し、昭和55年度に工事を終えている。田上の姉御達が通った昔の武岡山麓の面影は全く無くなってしまった。
 西田橋から先は「ひとながれの田舎町」とわれたが、町屋が西田橋から常磐町の入り口の町門まで並んでいた。

鹿児島城下絵図 天保年間

(図2『鹿児島城下絵図』天保年間)

 藩末まで現在の西田本通りの常盤町入り口の交差点に西田町と西田村の境の町門が設けられていた。この交差点付近は現在でも町門といわれ、西田小学校よりに「丁門」という喫茶店があった。 西田町は上ノ町・中ノ町・下ノ町の3町か (図2『鹿児島城下絵図』天保年間) らなり、市営バスの西田 中之丁停留所はその名残りである。先の天保年間の絵図によると、その付近に西田町の町役たちの会所や火ノ見櫓が描かれている。古い市街地図を見ると狭い間口の商店が規則的に並んでいる。おそらく幕末の店の地割の名残であろう。


(西田中之丁停留所)

 中浜万次郎は嘉永4年に琉球に帰国し、山川を経て8月鹿児島に入る。万次郎は西田会所で48日間取り調べをうけた。外国の事情に精通していることに驚き、海外の新知識導入に関心の深かった斉彬の命を受けた原田直助らが「造船及び捕鯨の方法、その他の事情」などについて聞き取りを行った。この時ス クーネル船のひな型が作られ、これをもとに造られたのがおつ越と 通 せん船といわれる(『中浜万次郎申口』)。
 西田通りは西目街道の参勤交代路で水上坂下から旅が始まった。図3『薩州鹿児島郡西田村絵図』(東京大学史料編纂所蔵)によると町門を過ぎ、新溝筋(石井手)の筋違橋を渡りしばら く西に進むと、右手に阿弥陀堂、その先に西客屋、左手に東客屋が描かれている。川が道路を斜めに横切って橋が斜めに架か っていたのですすけ筋違ばし橋と呼ばれた。


(図3『薩州鹿児島郡西田村絵図』(東京大学史料編纂所蔵) 

 筋違橋があった所から石井手用水路に沿って南に向かうと笑岳寺とその墓地があり、その一部が現在笑岳寺公園となっている。墓地は武岡墓地に移転した。笑岳寺は『三国名勝図会』に よると永禄12年(1569)創建、伊集院曹洞宗梅岳寺の末寺とある。明治2年廃寺のあと笑岳寺の墓地だけが残った。墓地は昭和48年鹿児島市の都市改造事業(土地区画整理事業)で移転し、住宅地や公園に生まれ変わった。


 (笑岳寺公園)

筋違橋の少し南で、西田田圃を潤す用水が分岐し、西田町の南側を東流し、西田橋の少し下流で甲突川に合流する。現在全部暗渠になり、上は道路になってい る。この用水路をみなじり蜷尻川と呼んでいた。


(筋違橋付近から暗渠水路)

 弟子丸方吉編の『常盤町之史蹟』(昭和14年発行)によると、堂の傍に綺麗な水が渾々と湧き出る泉があり阿弥陀井戸と呼んでいたという。昔はこの湧水を酒造りのため下町の酒屋が水汲みに来ていたという。阿弥陀堂には六尺ほどの阿弥陀が立っていてその傍に地蔵が並んでいたが、これも廃仏の時取り壊され埋められた。


(水上坂下水源地の跡) 

 その後地蔵が掘り出され、もとのところに安置されたという。写真は先日撮影したものであるが、写真の阿弥陀や地蔵等はこの時のものであろう。
 客屋の入り口には大きな黒塗りの門があり、参勤交代の時、ここで藩主は休憩し装束を改めたり行列を整えたりしたので、御装束門といったりしていた。客屋の 周りの山裾に藩政期に築造された立派な石垣があった。


 (客屋跡の石垣) 

筆者もかすかにその石垣を見た記憶がある。この湧水を過ぎると道は坂路になった。 明治2年9月に知政所から「水上客屋を廃することを達す。右御不用に付被廃候」と申し渡されている(『県史料忠義公史料』⑥p270)。
 日枝神社(山王社)の東側、常盤本通り沿いにあった同社の別当寺西田寺の南奥、現在の白浜病院の下付近に西田村の役所 があり本通りから役所に入る小路は「しよう庄や 屋どん殿 のすじ小路」とい わ れた(『常盤町之蹟』p28)。
 明治2年12月から庄屋は村長(むらおさ)と呼称が変わっている。(『鹿児島県史料「旧記雑録追録』⑧p719 )。ここが藩政期から西田村の村政の中心地であったと思われる。 明治44年10月に西田村の字一ノ迫ほかを割き、鹿児島市常盤町となっている。


 (庄屋殿の小路)

その時、他の西田村の字も、西田町と薬師町に編入され西田村は廃村になった。
 明治2年ごろから旧藩の施設は不用として廃止され、村役の呼称も変わる。明治維新の新制度に次々に替わっていった。 (今回は本文を唐鎌が、編集、写真は北が担当した)
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