2018年1月30日火曜日

④ 「名山堀の風景」

北 隆志

 毎年秋が終わろうとするころになると、名山堀の水面にはカキ船の提灯が揺いだ。屋形造りのカキ船では焼ガキ、カキ飯、酢ガキ、土手鍋などが料理され、船料理の情緒を醸すカキ船は宴会や家族連れで繁盛した。今はない名山堀の大正初期の風景である。
 カキ船の歴史は意外と古く元禄年間まで遡る。カキ船は、広島の草津、仁保島付近のカキ養殖業者が冬の季節に大阪方面でカキを販売したのが始まりで、川岸や橋に船を繋いでカキを販売するうちに、船上でカキ料理を提供するようになったという。今でいう産地直売である。文化12(1815)年ごろには、香川、愛媛、下関、小倉まで販路を広げている。(矢野村取調帖)
 明治当初の資料によると、愛媛でも江戸時代後期からカキ養殖が行われていたと思われる。広島だけでも550名のカキ養殖免許を得た者がおり、カキ養殖業者とカキ船の数は愛媛も加えると相当数に増えていた。このためカキ船はさらに販路を求めて遠く鹿児島にまで拡大したという。
 このころのカキ養殖法は、竹枝にカキを付着させ、潮の干満を利用した「ひび建法」によるものであった。干潮になるとカキは水上に出ているため、殻が厚く実は小ぶりだが上質で、俵に詰めた後、海水に浸してから運べば半月は新鮮さが保てたという(「カキ養殖」広島市郷土資料館)。
 帆船で鹿児島へ運んでいたカキはやがて汽船で運ばれるようになり、沖で汽船から団平船に載せ替え名山堀のカキ船に運んでいた。
 カキ船は冬が終わるころになると広島や愛媛に帰って、翌年秋に再び訪れるというものだった。この当時、愛媛県から鹿児島に来ていたカキ船業者が名山堀で起こした賭博事件の記事がある。『愛媛県北宇和郡宇和島恵比須町、当時市易居町名山堀牡蠣船内居住小池(38)、熊本県八代郡鏡町番戸不詳当時同船雇人簑田(61)、山口県三島郡三島村番戸不詳当時市内船津町家屋引直し請負業福山(43)三名は三日午前三時四十分頃前記牡蠣船内二畳座敷の周囲の窓に白布を引廻し深更を幸い今や車座となり花札を以て賭博を行いつつある折柄、巡邏中の坂下巡査が逸早く探知し、服部巡査の応援を得て直ちに朝日橋下より浪速銀行のボートに打乗りオールの音忍ばせ同船へ漕ぎつけるや飛鳥の如く現場へ躍り込み難なく前記三名を数珠つなぎに逮捕し、且つ亦座敷に散乱せる花札四十五枚、碁石十個、現金九円二十銭を押収のうえ本署へ引致せり(鹿児島新聞 大正6年7月4日)』。大正12年ころから常駐するようになったカキ船は、夏は鰻や鯉などの川魚を提供した。やがて堀が堆積物で浅くなり、澱んで衛生上の問題から堀が埋立られると、カキ船業者は陸に上がり鰻屋などを営むようになったという。

 さて,名山堀はいつの頃に出来たのかはっきりしない。
18代当主島津家久が城山の麓に新しく築城を考えた際、海に近いという防衛上の観点から父義弘が反対したことはよく知られている。鹿児島城との距離をおくために城の前を埋立たという説もあるが、もともと鹿児島は背後に吉野、城山、武岡と急崖のシラス台地が迫り、奥行のない地形であったため薩摩藩の町並整備は、海岸の埋立や河川改修に頼らざるを得ない状況であった。
 鹿児島城下を描いた寛文年間(1661~72)の『薩藩御城下絵図(1670年)』図1には、出島が描かれている。右側の水路が岩崎谷から海まで流れていた潮浸の堀で、現在の県民交流センターの裏(北側)にあたる。この堀は鹿児島城の北の外堀として整備されたものと思われる。外堀は深くて海水が入り込み、比較的大きな舟が出入りし、幕末には新橋付近に船手がおかれていた(「薩隅日地理纂考」)。今は1.5m程度の暗渠が城山の伏流水を流している。
  図1薩藩御城下絵図(1670年) 

 安政6(1859)年の『旧薩藩御城下絵図』図2では築島(現在の易居町)が完成している。築島は三つに仕切られ、左から薩摩藩の御作事方、諸御役所屋敷,出物御藏があった。御作事方の左端辺りが市役所前になる。
 南側の名山堀は暴風雨時の避難場所や船着場として使うため、現在の名山町、泉町、住吉町を埋め立る際、堀として残したものと思われる。堀は市役所の向かい側バス停あたりから約27mの幅で海へ向かっていた。市役所前にあった西側の堀は、水族館入口電停交差点辺りが北端で、外堀と交差していた。

  図2旧薩藩御城下絵図 

 大正10年2月、鹿児島市は第一次世界大戦後の物価安定のため現市役所本館と別館との間に店舗33軒が入った公設市場を開いた。昭和12年7月には、明治25年から市立美術館のところにあった市役所が現在の位置に移転した。
 図3は昭和23年の名山堀の航空写真である。市役所前の堀は明治41年末、市電を通すために埋立られ、北側(小川町側)の堀は、昭和10年頃までには埋め立てられた。また、南側(朝日通側)の名山堀は昭和23年には半分が埋め立られている。
上部に家屋が規則的に並んでいる所がこの時に埋め立てられた名山堀跡で、写真の中央下に黒く曲がったところが残った名山堀である。現在の名山町は,戦後混乱期の100軒程の市場から生まれた(「夢見るにぎわいの復活 名山堀 毎日新聞平成16年8月19日」)。市場は離島の船待ちの人々や市民で溢れ、米、手製の石鹸、鍋等種々雑多な日用品を販売していたという。
 敗戦で落ち込んでいた市民の心を和ました通称名山堀の飲屋街は、2坪ばかりの飲屋がびっしり立てこみ多くの飲み客を集めて繁盛した。戦後の混乱期を生きる必死さと、危うさを漂わせた街であった。
  戦後間もなく易居町を含めて鹿児島市の6割余りが土地区画整理事業戦災復興地区として事業が始まった。中心部の換地が昭和41年3月に終了すると町名整理が行われ、易居町の一部、六日町、築町及び山下町の一部が統合されて名山町が生まれている(「鹿児島市戦災復興誌」)。

 図3 昭和23年名山堀   

時代が落ち着いて、環境衛生が問題化されると市役所前通りの整備と併せて、残りの名山堀の埋立計画が具体化した。残っていた堀には、家のない市民たちが堀に杭を打ち込み水上家屋を造り住みついていて、その移転問題が完全に片づいたのが昭和41年であった。翌年には江戸時代からの名山堀はすべて埋立てられ、昭和44年、鹿児島市役所前から鹿児島港に向かうフェニックスの大通りが完成している。

 一方,環境問題は解決したものの、名山堀の雑多な中の居心地の良さが薄れたのか客足の減少とともに飲屋の数も減少していった。
 昭和30年代の賑わいの復活を夢見て,記憶を辿って再現された昭和30年代の飲食マップには、80余の飲屋が記されている(「あるいてみよう名山町案内昭和30年代の名山町付近」)。一階は止まり木で,二階は四畳半のコタツ部屋という風景が残っていた時代である。


  名山堀の埋立地に建てた家が連なる「名山堀3街区」では、昔造りの建物をあえて壊さず、今では造りたくとも造れない家並が残っている。
路地から空を見上げると、家を支えるため一定の間隔で渡されている「飛び梁」、一階部分より二階部分が張り出した「出し桁造り」など、今なお当時の風情を残している。


 住民の意向調査では、約90%が「このまま住み続けたい、営業をつづけたい」。60%が「横丁的なたたずまいを維持したい」などと答えている。店舗が軒を連ね活気にあふれていた時代の賑わいを取り戻すため、町内では新たな試みがみられる。昔の雰囲気を残したままの飲食店とモダンに改装した飲食店が混在したり、「3街区ギャラリー」と名付けた展示室を長屋の一角に設けて名山町の新たな動向を紹介し、今後の可能性を提案するなどしている。最近は若い人たちの間で関心をよび,名山堀の風情に魅了された人々が,町を巡る姿がみられる。
  名山堀は繁華街からも近く、市電、市バスが絶えず行き交う。表通りから路地に入ると昔ながらの商店街があり、食堂、古書店、飲食店、総菜屋など小さな店が空家の間に散在している。少し先の泉町まで足を延ばすと、明治や大正時代の石蔵が洒落た飲食店や衣料品店に生まれ変わるなど、古さを生かした新しい街並みが若者など人の流れを呼びつつある。

 江戸期のころ、ここは誠に綺麗な海岸で、桜島の影を映しているといって「名山堀」と名付けられたそうだ。
今は,広々とした芝生や欅並木の静かな雰囲気に包まれた市民の憩いの場となっている。
 夕べには提灯を吊した屋形船で宴会を楽しみ、市電の明かりや不断光院の六月灯の明かりなどが堀に映る。名山堀が残っておれば鹿児島の名物風景となっていたかもしれない。
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③ 「甲突川下流の流路の変遷」

唐鎌祐祥

  甲突川下流の流路の変遷については『薩陽落穂集』,『三國名勝図会』などに当時の口碑をもとに記されているが、本文ではこれらを地形学の視点を交えて考察してみたい。
  五味鹿大名誉教授によれば鶴丸城への移転は、慶長6(1601)年から始まり、城下が完成したのは慶長の末期あるいは寛永初期ころで、20年かそれ以上かかったとされる(「鹿児島城の変遷について」鹿児島県立図書館教養講座要旨集)。原口虎雄鹿大教授は「寛永年間(1624~1644)ごろまでにやっと目鼻がついて屋敷割をしたのではないか」としている(『鹿児島県の歴史』)
  家久はこの間、新しく下方限の士屋敷の建設のため、甲突川氾濫原の河筋の変更、沼沢地の埋立て、湧水池の整備など当時としては大規模な土木工事を行わなければならなかった。両教授が言われるように、寛永年間には下方限の土木工事、屋敷割が終了したと考えられる。
  旧鹿児島市の平地は甲突川や稲荷川が形成した三角州である。甲突川の三角州は河川の運搬作用が減少して、運んできた土砂を下流部に堆積して形成した堆積面で、浸食基準面付近に生じる低平な平野である。甲突川は下流では平衡曲線はごく穏やかに傾き、浸食基準面とほとんど一致しているので、川は大雨の時は分流、蛇行したりして様々な地形を形成してきた。河川は低地の下流部では曲流して蛇行河川になり、出水のとき河水が川外にあふれると川沿いに土砂を堆積し自然堤防を築いたり、また河跡湖を形成したりし,河口には微細な砂土を堆積してデルタ状に低平な三角州を形成する。甲突川の三角州にもこうした地形が形成され、中福良(微高地)や、中の平から高見馬場にかけての低湿地(氾濫原)、高見馬場(自然堤防か)はその事例である。
 甲突川が自然河川であったころ、和泉崎の辺りから幾条かに分流し,網状に沖積地を流れていた。中の平を東流し俊寛堀、大野港に注いだ川、清滝川、現在の甲突川などに分流していたと思われる。城下町の構築を通して分流や低湿地は改修され埋め立てられてきた。
  また、特に国道3号(中ノ平馬場)から高見馬場の間は城山山地や吉野台地の伏流水の湧水帯でもあり、天神馬場の天神池(山下小学校プールの反対側角地にあった)、窪田瀬、清滝川、照国神社境内南端の湧水の水源はこの伏流水の湧出によるものだと考えられる。
現在でも降雨のあとザビエル公園、山下小校庭,清瀧川公園などがひどくぬかるのは地下水位が高いからであろう。中ノ平馬場沿いのビル建設工事では大量の湧水に悩まされたといわれている。清滝川も分流のひとつであるが、湧水の排水河川も兼ねていたと考えられる。
  『薩陽落穂集』、『三國名勝図会』、『海老原清熙履歴概略』などは鹿児島城下の下方限に
町割が行われる以前の川の流路や地形について記しているが、『鹿児島県史』や、明治中期以降の地暦書もほぼこれらによっている。
  伊集院兼喜の『薩陽落穂集』は明和5~8(1768~1771)年ころに書かれたといわれ、その甲突川の流路についての記録はその後の史書に引用されている。
 「昔は上月川筋、柿本寺前の様に打廻り流れ候を黄門(家久)様御代に今の川筋に為相直の由その証拠に甲月八幡宮、今の義岡平太殿屋敷の後士屋敷の内に相建居御祭米迄相渡宮に而右の所本と川筋の故被召建置候處近年義岡弾正殿御代に御立願の故も有之候哉、只今の所へ御勧請に而祠堂銀等も為被相付由候」(『薩陽落穂集』㊦)
  史料中の「今の川筋」は甲突川、「本の川筋」は清滝川、甲突川の「本の川筋」があった証拠を残すため、「甲月八幡宮」が義岡家の屋敷付近に建立された。義岡家の位置は塩満郁夫編『鹿児島城下明細図』索引によれば「谷山街道の西、柿本寺馬場の東」の「千石馬場北」とある。新納殿小路と千石馬場がTの字に交わる北東角の屋敷が義岡屋敷で、現在の平之町9番地 東側(霧島温泉向側)にあたる。なお,新納殿小路は戦後の区画整理
で、中ノ平馬場(国道3号)と千石馬場の部分が廃道になりその跡は宅地になっている。

         図1 義岡屋敷付近。左側に霧島温泉がある。平成28年北撮影 


図2 『鹿児島市街実地踏査図』(明治40年)

 図2の明治40年の市街地図には,義岡屋敷から清滝川の川筋が始まっている。古くからこの屋敷付近に湧水があり清滝川の源流としていたのであろう。現在の雨水溝などから推測すると、城山山麓の調所屋敷付近を水源とする湧水がありこれも清滝川に流 れ込んでいたと推測される。先日,北氏と調査に出かけた時、平田公園北東角の雨水溝に北氏が枯葉を落とすとかなりの速さで枯葉は南に流れていった。晴天の日が続いていたがかなりの流れであった。
  義岡家は天正8(1580)年に当主久延が島津義久の義の字を与えられ義岡氏を名乗る。家格は一所持で領地は大口郷平泉村で、1,150石を領する大身分で、千石馬場に相応しい家格である(薩陽武鑑)。 
  先の史料の後半に「近年義岡弾正殿御代御立願の故も有之候哉只今の所へ  御勧請」とあるが、『旧薩藩御城下絵図』(安政6(1859)年ころ)の索引に「甲突八幡 甲突川の右岸沿い 武之橋の北」とあり、おそらくここが勧請後の位置であろう(図3参照)。
図3 『旧薩藩御城下絵図』(安政6年)

  義岡弾正は義岡平太の次の後継者であるが、「近年」というのは本史料が作成
された明和5~8(1768~1771)年に近い年代であろうが、なぜ甲突川右岸に移されたのか理由は不明。 
  文化14(1843)年にまとめられた『三国名勝図会』には、「(甲突川)一名、境川、大野川の名」もあるとし、甲突川の「旧流は府城の西隅柿本寺の後、和泉崎を通りて、柿本寺の下より府城の東南、若宮社の前を過ぎて海に入りしと口碑にあり。社前池塘其跡なりとぞ。のち河道を西に移し南林寺の背、清瀧川は其跡といひ、愈西にして今のごとしとぞ」と記し、これらは「口碑」であるとしている。先の史料を含め何れも口碑によるものであろう。
築城プランや城の内部構造などは防衛上の重要な機密で多くは伝わらなかったと推測される。
図4 天保年間『柿本寺、調所屋敷、義岡屋敷、千石馬場周辺』

   図4を参照して説明すると、甲突川に東から城山山地が迫る一帯は、北から城下中心部に入るところで、ここを過ぎると道 路は複雑に設けられ城下侵入の防衛施設の構えとなっている。和泉﨑の東の山麓に真言祈願所の柿本寺があり、外敵に備えた防衛の役割も果たしていたと考えられる。柿本寺前から高麗町橋までを柿本寺馬場といった。さらに山麓沿いに東に行くと天保改革の中心人物、調所広郷の屋敷があった。
若宮社は池塘俊寛堀の北隣にあった。俊寛堀は大野港跡という言い伝えもある。その後,改修工事によりこの川の流れは西の湿地帯を南へ流れ、清滝川はその流れの跡とある。流れの変更は下方限の町割の進捗と関係があり、城に近い現在の照国神社前付近の工事が先に進み、先の川と付け替えられた清滝川は一時的な排水河川として使われたものと考えられる。
また、現在の甲突川は人工的に作られた河川ではなく、先に述べたように古くからの分流のひとつであったと思われ、工事が進むと、旧甲突川(清滝川)を現在の甲突川に流す工事が行われたものと推測される。清滝川は先に述べたように城山山地の伏流水の排水河川でもあったのでその後も残ったものと考えている。
  明治15年ころ記された『海老原清熙履歴概略』の「甲突川架橋及び改修等の事」はより具体的な記述となっている。
  「上山ノ城以前は甲突川、今の新上橋より東の方平より城の下千石馬場・加治屋町を自在に流れ、俊寛堀辺りより下町の海へ流れたる由にて、萩原又は窪田瀬の有は清滝川とも云い、亦山之口地蔵堂の辺は少し高く、南林寺は歴代歌の通り海潮のなかなりしならん、城の立たるより支族諸士皆諸所より集まり宅地を広漠の地に立たりしならん、伊勢家地所は葭洲原なりしと聞くことなり、今の川筋は浅き瀬にて水は流れたる由なり」
  上記のように甲突川は鶴丸城下方限の縄張り以前には新上橋から東方の城山山麓の平(現在の平之町,照国町付近)方向に流れ、あるいは千石馬場、加治屋町を自在に(蛇行して)に流れ、再び城山下を流れ現在の照国神社前から俊寛堀をへて下町の海へ流れ出ていたという。天保年間の『鹿児島城下絵図』には、現在の天神馬場フレッセ高見馬場ビル(旧厚生市場)の西側駐車場付近に萩原天神があり、その向かい側角に天神池があった。『三國名勝図会』によれば「天神池の南一丁余りに窪田諏方池があった」とある。萩原は天神池、窪田諏方池一帯と考えられる。天明年間(1781~1788)の「御分国之巻」には「天神(或ハ萩原)」とある。「萩原又は窪田瀬の有は清滝川とも云い」とあるのは、萩原,窪田瀬の湧水を集める流れを清滝川といったということであろう。
  山之口地蔵堂は現在の地蔵角交番の交差点南寄りにあった。天文館から南林寺墓地にかけては明治末ころまでは中福良と言われた。中福良という地名は南九州に多い地名だが、いずれもふっくらと盛り上がった微高地の地形を示す地名である。清滝川はこの微高地を背(突き当り)にして西南方に流れ洲崎塩浜に至り錦江湾に流れ込んだ。中福良の南半分には南林寺の広大な墓地が広がっていた。南林寺が弘治3(1551)年に建立された頃の中福良南西部は清滝川や分流のころの甲突川の河口で、複雑に入り江が入り組み「潮入の浜」と言われたようだ。一方、伊勢家の地所は中福良の北端にあり氾濫原にかかっていたのであろうか。
「今の川筋は浅き瀬にて水は流れたる由なり」というのは、分流であった頃の今の川筋は浅い瀬であったが川水は流れていたということだろう。寛文10(1670)年ころのものと推定される「町割図」にも甲突川は「浅き砂川」と記されている。
清滝川は新しい甲突川に人工的に上流を争奪され,湧水や雨水だけが流れる河川になっていたと推測される。
  こうして鶴丸城の城下町の西外縁部は現甲突川の流れに移動し、甲突川は外濠の役目を有した。しかし、武士人口の増加にともない、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋からの街道沿いに武家屋敷や寺社、西田町ができ、川内に対し川外を形成した。また清滝川下流の新屋敷地区にも武家屋敷が拡張した。
 『鹿児島県史』(昭和15年発行)は『薩陽落穂集㊦』などを引用しほぼ先と同様なことが記され、「家久当時の川筋を改め、それより次第に埋立を行い、士屋敷、町屋敷を建設せしめた」とある(『鹿児島県史』第2巻P145)
  こうして町割が完成すると新しい甲突川は、洪水時の城下町を守るため西田橋より下流の左岸にはより高い堤防が設けられた。当時の右岸は人口希薄な低湿地であったが、河水が右岸にあふれるように設計され、水田や沢沼地などは遊水池の役割を果たした。
甲突川が高見橋下流で南東方に屈曲する辺りの右岸は「肥田殿の川原」といわれ、甲突川の鉄砲水が沢沼地や水田へ流れ込む流入口として設けられた川原と考えられる。明治44年6月の大雨の時、「甲突川沿岸の肥田殿河原は地形低きため濁水滔々として流れ込み、午後2時ごろは浸水4尺以上に上がり河原より田圃にかけ一面水海」になったとある。西田町の家には大水に備え常時舟が備えてあった。24日の新聞に「浸水せる西田町大通、船渡しの光景」という写真が掲載されいて、当時はまだ避難用の舟が備えてあったのだろう(明治44年6月「出水余聞」鹿児島新聞)
  『鹿児島藩小史料』によれば、甲突川の治水は「年々、桜島の人たちが川の溜りを流すくらいで、自然と川底が高く」なっていた。毎年のように、新上橋下流では諸所堤防を越え水浸していた。川の両側の「干寄の地」(河川敷か)は「面々の邸宅」が所有していて、川筋は広狭があって洪水時には河水が溢れる原因となっていた。干寄の地には沿岸の屋敷の氏神や地神の堂祠があったり、樹木庭園などになっていて河川工事に対し「物議頻出」し工事の進行を妨げた。
  天保13(1842)年ころに治水工事が始まった。新上橋より下流の川幅を一定にし、武之橋より下流を浚渫し、上流の土砂は、下流の川底の低下により増した水勢により自然に流しこむ方法をとった。下流を浚渫した土砂は小舟に鍬や鋤で土砂を積み河口に運びあげた。その地は「川尻の砂揚場」とよばれ、のち天保山といわれるようになった。この浚渫工事にも桜島の住民が専ら当たったが、士人も畚を以て地ならしをしたものだと伝えられる(『鹿児島藩小史料』)。こうして甲突川は城下屈指の川となり、川内、川外の交通を妨げたので橋が架けられた。
  『薩陽落穂集』などの口碑の記録を地形学的に考察してきたが、それまでの分かりにくかった部分がいくらか解ってきた。しかし、鹿児島市地域のくわしい地形の研究が必要である。
※無断転載禁止