2018年6月6日水曜日

⑤ 「坂本村と西田村の村界について」

唐鎌祐祥

  『三國名勝図会』は城下の寺社等の所在地を、中福良以東は坂本村は「坂本村に属す」とし、以西は甲突川を越えて武岡などの台地付近まで「西田村に在り」とかと記している。現在の鹿児島市の町界の分布から考えると途惑う。
今回は坂本村と西田村の村界について小見を述べてみたい。
 図表1は『三國名勝図会』の「鹿児島」の神社所在地を一覧にしたものである。これによれば旧城下の神社は坂本村と西田村に所在している。旧城下は古くは坂本村と西田村からなっていたことになる。
   図表1 『三國名勝図絵』(鹿児島)の神社所在地

  同書によると萩原天神社は「むかし武村萩原門の農夫負ひ来たり安置す」とあり、同社は「西田村に属す」とある。天保年間『鹿児島城下絵図』には現在の西千石馬場町に描かれている。新屋敷町にある船魂廟(神社)は武村船手にあり武村に属している。萩原天神社、塩竃神社等の所在地が甲突川を東に超えているのにどうして西田村、武村の所属なのか。現在の甲突川から考えると交通障害となり、西田村や武村の村界は甲突川までと考えるのが普通ではないか。鹿児島城下では甲突川が村境にはならず、甲突川を挟んで村域が広がっている。
 現在の東千石町、西千石町、加治木町一帯は旧甲突川の氾濫原や城山台地などの湧水地帯で、萩原、窪田(窪田瀬)とよばれ天神池や諏訪社(現清滝公園北側)の池などがあった。諏訪馬場の地名は諏訪社に由来するものであろう。萩原天神社は旧厚生市場、今の城山ストアの駐車場付近にあり、天神池は谷山街道との交差点の南西角地にあった。天神馬場もこれらに由来するものであろう。
 交通の障害となる河川が境界になる時は一般的に流路に合わせて境界は設定されるが、河川の流路や流水量は必ずしも不変ではなく、境界の変更を余儀なくされることがある。
 前回「甲突川下流の流路の変遷」で述べたように、古くは、あるいは鶴丸城構築以前は、甲突川本流は柿本寺の下から城山山麓辺を東流し俊寛堀前を流れ海に注いだという。鶴丸城の下方限の土木工事が進むと、先の本流は清滝川に付替えられ、下方限の工事が終わると「浅き砂川」で、一支流であった現在の甲突川に付替えられて、流量が増し大きな河川なったと考えられる。
 寛文10(1670)年頃のものと推定される町割図によれば甲突川は「浅き砂川」(五味克夫名誉教授『文政5年鹿児島絵図』鹿大史学26号)、 『海老原清熙履歴概略』には「今の川筋は浅き瀬にて水は流れたる由なり」とあり、歩いて渡れる小川ではなかったと推測される。この甲突川は交通を妨げる自然の障害ではなく、村の境界となるほどの川でもなかったと考えられる。甲突川は、一時本流であった清滝川の上流を人工的に争奪し本流となり現在のような大きな河川となった。
  前回に述べたように甲突川の「本の川筋」があった証拠を残すため、「甲月八幡宮」が義岡平太の屋敷付近に建立された。その後「近年義岡弾正殿御代御立願の故も有之候哉只今の所へ御勧請」とあるが、新しく移転した甲月八幡は、『旧薩藩御城下絵図索引』(塩満郁夫編)によれば「甲突川の右岸沿い 武之橋の北」にあり、ここが勧請後の位置であろう(図表2参照)。
 図表2 甲月八幡          

 義岡弾正は義岡平太の次の後継者である(安政6年『旧鹿児島城下絵図』)が、「近年」というのは本史料が作成された明和5~8(1768~1771)年に近い年代であろう。
 前回はなぜ甲突川右岸に移されたのかその理由については不明としたが、甲月八幡の創建主旨によると移転勧進する必要はないとも考えられるが、何れにしても本流が現在の甲突川になったことと関係があると考えている。
 現在、甲突川は流域の町々の全ての町界となっている。本流となった甲突川は西田町・武町を分断したが、村名・村域名はそのまま残ったと考えられないか。
 南林寺は「坂本村と武村の界に属し」とある。南林寺は南北に長く延びた低い丘陵地中福良の中央部に在る。中福良は両村の境界で、西側は西田村の村域で、東側は坂本村であるということではないか。先の表の西田村に属する神社は何れも中福良の西側に在る。時代を経て、おそらくこのことは日常的には意識されなかったが、公的な地歴書などだけに記載されたのではないかと考えられる。
 『御家兵法純粋』に「今の中福良は吹上の浜の小形にて砂の吹上にて地面高く奇麗なりと云へり。中福良の西南はすべて田地なり。今の南林寺の堂司辺千立山とて近代までしげりたる平山ありし」とある。吹上は卓越風の強い海岸近くに形成される砂丘で、吹上の浜は日本三大砂丘の一つ薩摩半島西岸の吹上浜、小形の吹上は中福良のことである。南林寺付近の平山を千立山といっていたらしい。山之口馬場の山之口という地名は千立山、南林寺への登り口の意であろう。
  『玉里文庫目録』によれば同書は示現流の達人、久保之英の著とある。「天明8(1788)年7月21日起筆、寛政元(1789)年4月8日書終」とあり、例言には「此古老之云伝ヲ以書載事多シ」とある。主に古老の言い伝えを記したもののようである。
 古い鹿児島の地は、この吹上(中福良)を境に坂本村と西田村からなっていたのではないかと推論される。
 『三國名勝図会』(鹿児島)の神社、寺院の分布、「南林寺は坂本村と武村の界に属し」、「(甲突川は)浅き砂川(浅き瀬)」などを根拠に西田村・武村の村境の不自然さの理由を指摘したが、単なる浅見かもしれないが予て考えていたことを述べてみた。
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