2019年7月4日木曜日

⑦「天神馬場・おはら通り・福徳ビル」

唐鎌祐祥
◆天神馬場
 天神馬場は行きつけの居酒屋やコンビニがあって馴染みの街である。アーケードの中の千石天神の明りが見えると自分の街を感ずる。高齢の男鰥(おとこやもめ)がこんな街の居酒屋を楽しめるとは運のいい奴だと思う。夕食のつもりがついやりすぎてふらふらになって帰ることもある。酔っ払いだから信号はきちんと守った方がいいよと、滅多にないことを帰省した息子が云った。だから信号には敏感だ。帰りに天神さんに賽銭をあげて、今日はこれで終りと決める。
 天神馬場にはピラモールができる前までは地方行きのバスが通っていた。春苑堂書店前の道路に車を止めて本を買っていたものだ。街が綺麗になってそんなことはもう忘れてしまいそうだ。
 千石天神は萩原天神を再建したものだ。『薩藩名勝志』に「天神馬場に鎮座。西田村に属す。(中略)。昔武邨萩原門の農夫他州より背負い下り安置す」とある。天保年間の絵図には、今の厚生市場の駐車場付近に萩原天神があり、向い角に天神池が描かれている。宝暦のころ、南泉院の池の数千匹の蛙が、この池にやってきて蛙同士が戦う。天神池から甲突川の方に行った窪田というところに諏訪社がありその境内に窪田諏訪池があった。諏訪池の蛙たちが天神池の蛙に加勢(かせい)して戦うこと四日間ようやく和平なり戦いは終わる。「天神池蛙闘(てんじんいけかわずののたたかい)」といわれ城下ではよく知られた民話のようだ。蛙闘が何を意味するのかは解らない。
 国道3号から天神馬場一帯はシラス台地の城山、吉野に降った雨水が伏流水となり湧き出でてできたのが天神池や諏訪池で、諏訪池は清瀧川の水源の一つであった。
 萩原天神は明治四年に磯天神に合祀されていたが、帝国館などの経営者の一人末弘虎治郎が建立委員長となり千石町の人々や券番、芸妓さんの寄金で、昭和十三年四月に建立されたと境内の碑にある。それ以来千石天神と呼んでいる。天神さんの位置に伊勢殿屋敷の正門があった。
 学業祈願のほかに、街中の神社らしく、商売繁盛、家内安全、健康祈願などの御利益(ごりやく)があるらしい。日本の神々は寛大で、家の宗教が浄土真宗である私の願いも聞いてくださる。私には結構ごりやく利益がある。鳥居、手水鉢なども当時の料理業組合、置屋業組合、芸妓一同が寄進したものだ。
 参詣者が比較的多いのは正月か、照国神社と同じ日に行われる六月灯の時ぐらいだが、ポツリ、ポツリと参詣している人のうしろ姿は、一瞬、街の喧騒から切り離された静寂の空間をつくる。新しい街、ピラモールにたたずむ朱の鳥居や神殿の建造物は天神馬場のアメニティ(心地よさ)を引き立てている。三浦展は「アメニティは歴史性、つまり都市や街の記憶である。古い物から新しい物まで、異なる時代、異なる世代の文化が重層的に存在し、街の中にそれがモザイク的に見え隠れしているような状態こそが重要である」といっている(三浦展『ファスト風土化する日本』)。
 千石神社は錦小路の錦天満宮や、新橋の烏森神社と比べるとたいへん地味だ。天神馬場のシンボルだからもっと綺麗に派手にして差し上げたらどうだろうか。

◆おはら通り
 昭和二四年十二月におはら通り(天神馬場~電車通り)が命名された時の記事は「鹿児島の繁華街、天文館の道路はそれぞれの装いをこらして文化街をかたちづくっているが、今度、樋渡ミルクホールの横から天神馬場へつらぬく道路にその名も郷土にちなんでおはら通りとして、ちかく客足の吸収に目新しい趣向を施すことになった。この通りには樋渡ミルクホール、小劇 、割烹、有村パンなどが軒を並べており、こんど、文化通りに仲間入りして、ますますにぎわいを呈するものと見られている」と戦後の天文館が復興する模様を伝えている。
 昭和二一年十一月、日置裏門通りは文化通りと通り名を変える。第一映画、セントラル映劇の映画館主が中心となり改称したもので、この付近には映画館、バス発着場、旅館などができ天文館地区では戦後最も早く復興した通りである。その影響をうけ、その裏路地のおはら通りも繁盛した。


 図は記事と同じ日に掲載された広告である。この広告に載らなかった店もあったと思われるが、今も屋号がそのまま残っているのは松木呉服店だけである。ミルクホールは和製英語milk hallで、牛乳を飲ませ、パンなどを売っている飲食店のことで、私にはその語感に懐かしい響きがある。樋渡ミルクホールは終戦直後の当時としてはハイカラな喫茶店風の店だったと、同じ通りに昭和二十年代末に開店した分家無邪気のお母さんが云っていた。同ホールは昭和二一年六月に西駅(中央駅)前電車通りに開店し、翌年の十一月ころにおはら通りにも開店し、吉田舟水画伯という人の日本画展覧会を開いたりしている。
 小劇は昭和二三年八月に山形屋一階にあった山形屋映画劇場が移転してきたものである。小屋の前身は文芸座という鹿児島初の新劇劇団の専属の小屋で文化劇場といった。劇場は昭和二一年十一月に落成している。文芸座の座長は寺園純夫という人であったが、広告の「大衆食堂・やき鳥 文六」の寺園純夫という人と同一人物ではないかと思っている。昭和二十年代初めの鹿児島の演劇運動に係った人である。松露のところが現在の黒岩ラーメンである。昭和四十年ころだったか、電車通り側の日置荘付近の地下にムーランという美人ぞろいのスナックバーがあった。
 現在、おはら通り名は使われてはいないが、この通りは天文館でも指折りの魅力的な路地である。ざっと見ても、鹿児島名物のラーメン店が三軒もあり、鹿児島市を代表するおでん・焼き鳥店が三軒、女性に人気のある喫茶店、レストラン、市内ではほとんど見られなくなった老舗の呉服店、時計店、すし屋、最近、郷土菓子店、そば店もできた。
 こむらさきラーメンの東脇から入る細い通路の奥に天文館湯という銭湯があった。高度成長期に家族風呂が多くなり入浴客が減り廃業した。映画館と書店、特に、あの小劇が残っていたら九州を代表する路地の一つになっただろうと思っている。個性のある小さな店が並ぶ路地は魅力的で一日の疲れをいやしてくれる。人には思い出の詰まる路地が必要である。

◆福徳ビル
 文化通り南側入り口にあるセントラルビルは、昭和四九年に建て替えられる前は福徳生命ビルといった。きっと年配の方はこのビルに思い出のある方が多いと思われる。福徳生命ビルは昭和五年の暮れに落成している。三階建てで当時としてはモダンなビルであった。ロシア革命(一九〇五~一七)で日本に亡命してきた白系ロシア人のチエレバノフ兄弟、スターデニック、スリヤピンという人たちが天文館で洋服店を経営していた。スリヤピンの洋服店は昭和十二年頃は福徳ビル一階の電車通りに面するところにあった。戦後は戦災で焼けて色あせていて、現在六〇代の山下小、松原小、甲東中学校出身の元シティー・ボーイたちには幽霊ビルと呼ばれていたらしい。
 昭和二二年、鹿児島市は復興都市計画事業として、朝日通りから西駅(現中央駅)までの電車通り沿線の家屋を移転して電車通りを幅員三六㍍に拡張し歩道を設ける工事を行った。問題だったのは高島屋(現タカプラ)、福徳ビル、安田生命などの大きな建物をどうするかであった。高島屋は一階部分をぶち抜いて歩道にすることで解決したが、二三〇坪の福徳ビルにつてはなかなか解決しなかった。ビルは長い間歩道をふさいだままになっていて天文館のコブといわれていた。ようやく後方に移転することに決まり、昭和二九年二月に工事がはじまり、十一月にやっと終わりコブがとれた。どうして量ったのかビルの重さは千五百トンだったそうだ。
 移転と同時に、一階に当時鹿児島では珍しい福徳名店街ができた。昭和三三、四年ごろ名店街に勤務していたIさんによれば、谷川物産(乾物)、本田肉屋支店、山口水産、駒木鮮魚店、浜崎野菜店、四元野菜店、池田茶屋などの出店がならんでいた。特に鮮魚店、肉屋などは品が新鮮で割烹や大きな食堂の仕入れが多かったらしい。松原神社で大相撲の巡業があると力士たちがチャンコの食材を買出しに来たという。


 図は昭和四十年ころの福徳ビル付近である。本図は東京交通社の市街地図を利用させていただいたが、この種の地図の始まりは昭和三一年刊行の「鹿児島市住宅案内図」で、編集者は住宅案内刊行会の宮内久雄さんである。もう四十年以上も前のことだが、地図の掲載許可を宮内さんにお願いしたら快くOKをいただき嬉しかったことを覚えている。最近、同住宅案内地図がよく利用されているのを見かけるが、鹿児島市の高度成長初期を知る貴重な資料となっている。昭和三五年を最後に、東京交通社出版、ゼンリン鹿児島出張所などに出版社が変わっている。
 さて、現在に住宅地図のように厳密ではないが、地図は福徳ビルの一階から三階までが書き込まれている。文化通り側の外階段を登ると小さな広場があった。広場の回りに小さなバーが四、五軒並んでいた。昭和三〇年代、一番手前にシスターというマスコミの人たちがよく集まるバーがあった。例のクリスマスパーティの夜、筆者も居合わせ大人の世界を覗いたような気分になったことを覚えている。たしか三階には玉突場があり、高校生風の若い人たちが遊んでいて、田舎の中学校出身の私にはやはり都会の連中は違うなと思った。
 ビルの西隣の路地の立花通り(萩原通り―電車通り)には小さな飲み屋がぎっしり並んでいた。一九八〇年代後半のバブル経済のときに地上げでこの路地は消え、今はドンキホーテになっている。路地の中ほどの居酒屋に、なんこの強いことで知られた有名な姉さんがいて、周りから煽られて一度挑戦したことがあったが全く歯がたたなかった。現在までこの路地が残っていたら鹿児島の名所になっただろうに残念である。
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