唐鎌祐祥
甲突川下流の流路の変遷については『薩陽落穂集』,『三國名勝図会』などに当時の口碑をもとに記されているが、本文ではこれらを地形学の視点を交えて考察してみたい。
五味鹿大名誉教授によれば鶴丸城への移転は、慶長6(1601)年から始まり、城下が完成したのは慶長の末期あるいは寛永初期ころで、20年かそれ以上かかったとされる(「鹿児島城の変遷について」鹿児島県立図書館教養講座要旨集)。原口虎雄鹿大教授は「寛永年間(1624~1644)ごろまでにやっと目鼻がついて屋敷割をしたのではないか」としている(『鹿児島県の歴史』)。
家久はこの間、新しく下方限の士屋敷の建設のため、甲突川氾濫原の河筋の変更、沼沢地の埋立て、湧水池の整備など当時としては大規模な土木工事を行わなければならなかった。両教授が言われるように、寛永年間には下方限の土木工事、屋敷割が終了したと考えられる。
旧鹿児島市の平地は甲突川や稲荷川が形成した三角州である。甲突川の三角州は河川の運搬作用が減少して、運んできた土砂を下流部に堆積して形成した堆積面で、浸食基準面付近に生じる低平な平野である。甲突川は下流では平衡曲線はごく穏やかに傾き、浸食基準面とほとんど一致しているので、川は大雨の時は分流、蛇行したりして様々な地形を形成してきた。河川は低地の下流部では曲流して蛇行河川になり、出水のとき河水が川外にあふれると川沿いに土砂を堆積し自然堤防を築いたり、また河跡湖を形成したりし,河口には微細な砂土を堆積してデルタ状に低平な三角州を形成する。甲突川の三角州にもこうした地形が形成され、中福良(微高地)や、中の平から高見馬場にかけての低湿地(氾濫原)、高見馬場(自然堤防か)はその事例である。
甲突川が自然河川であったころ、和泉崎の辺りから幾条かに分流し,網状に沖積地を流れていた。中の平を東流し俊寛堀、大野港に注いだ川、清滝川、現在の甲突川などに分流していたと思われる。城下町の構築を通して分流や低湿地は改修され埋め立てられてきた。
また、特に国道3号(中ノ平馬場)から高見馬場の間は城山山地や吉野台地の伏流水の湧水帯でもあり、天神馬場の天神池(山下小学校プールの反対側角地にあった)、窪田瀬、清滝川、照国神社境内南端の湧水の水源はこの伏流水の湧出によるものだと考えられる。
現在でも降雨のあとザビエル公園、山下小校庭,清瀧川公園などがひどくぬかるのは地下水位が高いからであろう。中ノ平馬場沿いのビル建設工事では大量の湧水に悩まされたといわれている。清滝川も分流のひとつであるが、湧水の排水河川も兼ねていたと考えられる。
『薩陽落穂集』、『三國名勝図会』、『海老原清熙履歴概略』などは鹿児島城下の下方限に
町割が行われる以前の川の流路や地形について記しているが、『鹿児島県史』や、明治中期以降の地暦書もほぼこれらによっている。
伊集院兼喜の『薩陽落穂集』は明和5~8(1768~1771)年ころに書かれたといわれ、その甲突川の流路についての記録はその後の史書に引用されている。
「昔は上月川筋、柿本寺前の様に打廻り流れ候を黄門(家久)様御代に今の川筋に為相直の由その証拠に甲月八幡宮、今の義岡平太殿屋敷の後士屋敷の内に相建居御祭米迄相渡宮に而右の所本と川筋の故被召建置候處近年義岡弾正殿御代に御立願の故も有之候哉、只今の所へ御勧請に而祠堂銀等も為被相付由候」(『薩陽落穂集』㊦)
史料中の「今の川筋」は甲突川、「本の川筋」は清滝川、甲突川の「本の川筋」があった証拠を残すため、「甲月八幡宮」が義岡家の屋敷付近に建立された。義岡家の位置は塩満郁夫編『鹿児島城下明細図』索引によれば「谷山街道の西、柿本寺馬場の東」の「千石馬場北」とある。新納殿小路と千石馬場がTの字に交わる北東角の屋敷が義岡屋敷で、現在の平之町9番地 東側(霧島温泉向側)にあたる。なお,新納殿小路は戦後の区画整理
で、中ノ平馬場(国道3号)と千石馬場の部分が廃道になりその跡は宅地になっている。
図1 義岡屋敷付近。左側に霧島温泉がある。平成28年北撮影
図2 『鹿児島市街実地踏査図』(明治40年)
図2の明治40年の市街地図には,義岡屋敷から清滝川の川筋が始まっている。古くからこの屋敷付近に湧水があり清滝川の源流としていたのであろう。現在の雨水溝などから推測すると、城山山麓の調所屋敷付近を水源とする湧水がありこれも清滝川に流 れ込んでいたと推測される。先日,北氏と調査に出かけた時、平田公園北東角の雨水溝に北氏が枯葉を落とすとかなりの速さで枯葉は南に流れていった。晴天の日が続いていたがかなりの流れであった。
義岡家は天正8(1580)年に当主久延が島津義久の義の字を与えられ義岡氏を名乗る。家格は一所持で領地は大口郷平泉村で、1,150石を領する大身分で、千石馬場に相応しい家格である(薩陽武鑑)。 先の史料の後半に「近年義岡弾正殿御代御立願の故も有之候哉只今の所へ 御勧請」とあるが、『旧薩藩御城下絵図』(安政6(1859)年ころ)の索引に「甲突八幡 甲突川の右岸沿い 武之橋の北」とあり、おそらくここが勧請後の位置であろう(図3参照)。
図3 『旧薩藩御城下絵図』(安政6年)
義岡弾正は義岡平太の次の後継者であるが、「近年」というのは本史料が作成
された明和5~8(1768~1771)年に近い年代であろうが、なぜ甲突川右岸に移されたのか理由は不明。
文化14(1843)年にまとめられた『三国名勝図会』には、「(甲突川)一名、境川、大野川の名」もあるとし、甲突川の「旧流は府城の西隅柿本寺の後、和泉崎を通りて、柿本寺の下より府城の東南、若宮社の前を過ぎて海に入りしと口碑にあり。社前池塘其跡なりとぞ。のち河道を西に移し南林寺の背、清瀧川は其跡といひ、愈西にして今のごとしとぞ」と記し、これらは「口碑」であるとしている。先の史料を含め何れも口碑によるものであろう。
築城プランや城の内部構造などは防衛上の重要な機密で多くは伝わらなかったと推測される。
図4 天保年間『柿本寺、調所屋敷、義岡屋敷、千石馬場周辺』
図4を参照して説明すると、甲突川に東から城山山地が迫る一帯は、北から城下中心部に入るところで、ここを過ぎると道 路は複雑に設けられ城下侵入の防衛施設の構えとなっている。和泉﨑の東の山麓に真言祈願所の柿本寺があり、外敵に備えた防衛の役割も果たしていたと考えられる。柿本寺前から高麗町橋までを柿本寺馬場といった。さらに山麓沿いに東に行くと天保改革の中心人物、調所広郷の屋敷があった。
若宮社は池塘俊寛堀の北隣にあった。俊寛堀は大野港跡という言い伝えもある。その後,改修工事によりこの川の流れは西の湿地帯を南へ流れ、清滝川はその流れの跡とある。流れの変更は下方限の町割の進捗と関係があり、城に近い現在の照国神社前付近の工事が先に進み、先の川と付け替えられた清滝川は一時的な排水河川として使われたものと考えられる。
また、現在の甲突川は人工的に作られた河川ではなく、先に述べたように古くからの分流のひとつであったと思われ、工事が進むと、旧甲突川(清滝川)を現在の甲突川に流す工事が行われたものと推測される。清滝川は先に述べたように城山山地の伏流水の排水河川でもあったのでその後も残ったものと考えている。
明治15年ころ記された『海老原清熙履歴概略』の「甲突川架橋及び改修等の事」はより具体的な記述となっている。
「上山ノ城以前は甲突川、今の新上橋より東の方平より城の下千石馬場・加治屋町を自在に流れ、俊寛堀辺りより下町の海へ流れたる由にて、萩原又は窪田瀬の有は清滝川とも云い、亦山之口地蔵堂の辺は少し高く、南林寺は歴代歌の通り海潮のなかなりしならん、城の立たるより支族諸士皆諸所より集まり宅地を広漠の地に立たりしならん、伊勢家地所は葭洲原なりしと聞くことなり、今の川筋は浅き瀬にて水は流れたる由なり」
上記のように甲突川は鶴丸城下方限の縄張り以前には新上橋から東方の城山山麓の平(現在の平之町,照国町付近)方向に流れ、あるいは千石馬場、加治屋町を自在に(蛇行して)に流れ、再び城山下を流れ現在の照国神社前から俊寛堀をへて下町の海へ流れ出ていたという。天保年間の『鹿児島城下絵図』には、現在の天神馬場フレッセ高見馬場ビル(旧厚生市場)の西側駐車場付近に萩原天神があり、その向かい側角に天神池があった。『三國名勝図会』によれば「天神池の南一丁余りに窪田諏方池があった」とある。萩原は天神池、窪田諏方池一帯と考えられる。天明年間(1781~1788)の「御分国之巻」には「天神(或ハ萩原)」とある。「萩原又は窪田瀬の有は清滝川とも云い」とあるのは、萩原,窪田瀬の湧水を集める流れを清滝川といったということであろう。
山之口地蔵堂は現在の地蔵角交番の交差点南寄りにあった。天文館から南林寺墓地にかけては明治末ころまでは中福良と言われた。中福良という地名は南九州に多い地名だが、いずれもふっくらと盛り上がった微高地の地形を示す地名である。清滝川はこの微高地を背(突き当り)にして西南方に流れ洲崎塩浜に至り錦江湾に流れ込んだ。中福良の南半分には南林寺の広大な墓地が広がっていた。南林寺が弘治3(1551)年に建立された頃の中福良南西部は清滝川や分流のころの甲突川の河口で、複雑に入り江が入り組み「潮入の浜」と言われたようだ。一方、伊勢家の地所は中福良の北端にあり氾濫原にかかっていたのであろうか。
「今の川筋は浅き瀬にて水は流れたる由なり」というのは、分流であった頃の今の川筋は浅い瀬であったが川水は流れていたということだろう。寛文10(1670)年ころのものと推定される「町割図」にも甲突川は「浅き砂川」と記されている。
清滝川は新しい甲突川に人工的に上流を争奪され,湧水や雨水だけが流れる河川になっていたと推測される。
こうして鶴丸城の城下町の西外縁部は現甲突川の流れに移動し、甲突川は外濠の役目を有した。しかし、武士人口の増加にともない、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋からの街道沿いに武家屋敷や寺社、西田町ができ、川内に対し川外を形成した。また清滝川下流の新屋敷地区にも武家屋敷が拡張した。
『鹿児島県史』(昭和15年発行)は『薩陽落穂集㊦』などを引用しほぼ先と同様なことが記され、「家久当時の川筋を改め、それより次第に埋立を行い、士屋敷、町屋敷を建設せしめた」とある(『鹿児島県史』第2巻P145)。
こうして町割が完成すると新しい甲突川は、洪水時の城下町を守るため西田橋より下流の左岸にはより高い堤防が設けられた。当時の右岸は人口希薄な低湿地であったが、河水が右岸にあふれるように設計され、水田や沢沼地などは遊水池の役割を果たした。
甲突川が高見橋下流で南東方に屈曲する辺りの右岸は「肥田殿の川原」といわれ、甲突川の鉄砲水が沢沼地や水田へ流れ込む流入口として設けられた川原と考えられる。明治44年6月の大雨の時、「甲突川沿岸の肥田殿河原は地形低きため濁水滔々として流れ込み、午後2時ごろは浸水4尺以上に上がり河原より田圃にかけ一面水海」になったとある。西田町の家には大水に備え常時舟が備えてあった。24日の新聞に「浸水せる西田町大通、船渡しの光景」という写真が掲載されいて、当時はまだ避難用の舟が備えてあったのだろう(明治44年6月「出水余聞」鹿児島新聞)。
『鹿児島藩小史料』によれば、甲突川の治水は「年々、桜島の人たちが川の溜りを流すくらいで、自然と川底が高く」なっていた。毎年のように、新上橋下流では諸所堤防を越え水浸していた。川の両側の「干寄の地」(河川敷か)は「面々の邸宅」が所有していて、川筋は広狭があって洪水時には河水が溢れる原因となっていた。干寄の地には沿岸の屋敷の氏神や地神の堂祠があったり、樹木庭園などになっていて河川工事に対し「物議頻出」し工事の進行を妨げた。
天保13(1842)年ころに治水工事が始まった。新上橋より下流の川幅を一定にし、武之橋より下流を浚渫し、上流の土砂は、下流の川底の低下により増した水勢により自然に流しこむ方法をとった。下流を浚渫した土砂は小舟に鍬や鋤で土砂を積み河口に運びあげた。その地は「川尻の砂揚場」とよばれ、のち天保山といわれるようになった。この浚渫工事にも桜島の住民が専ら当たったが、士人も畚を以て地ならしをしたものだと伝えられる(『鹿児島藩小史料』)。こうして甲突川は城下屈指の川となり、川内、川外の交通を妨げたので橋が架けられた。
『薩陽落穂集』などの口碑の記録を地形学的に考察してきたが、それまでの分かりにくかった部分がいくらか解ってきた。しかし、鹿児島市地域のくわしい地形の研究が必要である。
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